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僕にはこの映画について語る言葉はない『GOLDFISH』

映画『GOLDFISH』

1980年代に社会現象にまでなった幻のパンクバンド「ガンズ(銃徒)」の再結成にまつわる物語。

明らかに「アナーキー(亜無亜危異)」がモデルだと分かる。
そして監督はアナーキーのギタリスト藤沼伸一。

僕はこの映画を楽しめる資格はないだろうな、と思いつつもやはり観てしまった。
音楽を、ギターを、そしてロックを愛しているから。

だけど観ている間も、そして観終わってからもやはり思った。
僕にはこの映画を語る言葉はないと。

1970年代後半には中高生だった僕はパンクではなかったし、
宝島は読んでいたけれど(ナゴムレコードのサブカル感が好きだった)、
パンクはファッション重視で格好悪いと思っていた。
そして、日本のハードコア・パンクシーンは正直恐ろしかった。
INU(イヌ)ってなんだよ、「飯食うな」ってどんなアルバムやねん。
ハナタラシ?原爆オナニーズ?赤痢?なんでそんな名前?
どうしてライブで暴動になるのか、ブルドーザー乗り入れて会場をぶっ壊すとか信じられなかった。

音楽ってFUNやろ。
なんせ中1のベイシティローラーズとKISSでロックが好きになったのだから。

家庭環境は恵まれたものではなかったけれど、だからこそ音楽に逃げたけれどそこには怒りなんてなかった。
音楽やギターは僕にとっては怒りや憤りをぶつけるものではなかったから。

だから、正直彼ら(ガンズ、そしてアナーキー)のことはよくわからない。
共感も出来ない。

若さ故の初期衝動からたまたまギターを手にとって音楽をはじめた彼ら。
タイミングが違えばそれはバイクでもよかったのかもしれないし、暴走族になっていたのかもしれない。
そこまでは同じだ。

1人は初期衝動のままはじめたバンドで自己顕示欲が満たされて、自分を表現出来ることに喜びを見出していた。
もう1人は純粋に音楽にそしてギターに目覚めた。ブルースに触れ、ロバート・ジョンソンを敬愛するようになる。

2人はどこかで袂を分かつのが必然だったのだろう。

でも、バンドという表現形態を続ける限り、音楽的な成長、探求へ向かわざるを得なくなるのだけれど、
1人にとって、それはなんだか自分の「バンド」が自分の手を離れてどこか遠いところへ行ってしまったかのように感じた。
自分だけ取り残されたかのように思った。
そうして、何者かになれると思っていたのに、バンドを続けている限り何者にもなれないという現実を受け入れられずに、他人を傷つけてしまう。
若さ故の甘え。

それを彼はずっと引き摺っていた。
バンドを始めた頃の楽しかったことを思い出しながら。
だけど、それは過去に生きているだけで、現実世界では廃人同然の暮らしを続けているだけだった。

そして、残った1人は音楽で細々なりに飯を食えていけるようにはなっていたけれど、果たして幸せだったのだろうか。
あの時の初期衝動だけではじめた5人の頃に何かを置き忘れていたのだろうか。

そして、悲劇が起こった。

僕は強いて例えればガンズでいうと、ドラムとベースの2人だ。
あれは若い時の一時の夢。
現実を見て社会人としてちゃんと独り立ちするために、音楽は趣味だと割り切らないとやってけない。

中1でバンドをはじめて高校から同級生たちとはじめたバンドは、
地元大阪でプロとして活動していたバンドのカバーからスタートして、プロでやっていくにはオリジナルが必要だと、オリジナルにも力を入れて地元のライブハウスに出始めた。
だけど、すぐに気づく。
この程度じゃプロなんて夢物語だ。
自分達が憧れてカバーをしていたバンドも、バンドだけで食えていけているか?
みんな副業(実際はどちらが副業か分からない)をやってしのいでいる。
借金まみれの親から逃れるためには、一刻も早く独り立ちするのが先決だ。
バンドは二の次だ。
とりえずここは大学を卒業して、就職しなくちゃ。
そんな現実的な考えが勝っていた。
ちょうど同じタイミングで敬愛するバンドが解散ライブをしたのも潮時だった。

だから、僕にはこの映画の主人公の2人、
音楽を愛するが故に音楽を遠ざけたハルと、
ずるずると音楽をやまるきっかけを失っただけかもしれないイチ、
この2人について語る言葉はない。

それにしても、ハル役北村有起哉とイチ役の永瀬正敏の2人はヤバかったね。
永瀬正敏はまぁいつもの彼だったけれど、北村有起哉なんて最初は誰だか分からなかったほどだ。

バカヤロウ。
最後にハルの骨を撒いて、鉢の中の金魚にむかってつぶやくイチ。

やっぱり僕には彼らについて語る言葉はない。

<了>

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