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『あるオフィス街の片隅で』


クルージング旅行をしてきたからって、あの人ったら会社にお土産を配りに行くってきかないんです。

定年退職をして、少しのんびりして、それからわたしたち夫婦は、長年の夢だった船旅をしてきました。

とても優雅で贅沢な時間を過ごすことができました。ドレスコードとテーブルマナーだけはちょっぴり窮屈でしたけどね。

およそ1か月の旅程を終えて、帰国したんです。滑稽ですね、自宅に着くなり、あぁうちがいちばんなんて夫婦そろって言うものですから。

それで、娘夫婦やお友達、ご近所さんに配るお土産を整理していたら、夫は元勤め先にもと言い出したわけなんです。

辞めた老いぼれがお邪魔したって迷惑でしかありませんよ、とそう言い聞かせたんですが、いつのまにか出かけていきました。

自分では人気者だと思い込んでいるのかしら。チョコレートの箱を3つも持って。どれだけたくさんの人に配るのでしょうね。

みなさんのご迷惑だけにはならないよう、それだけを願っています。


夫が帰宅しました。

チョコレートの箱は開けずにそのままのようです。きけば、社員証を持っていないから、入館ゲートを通ることができなかったと。

それから、お知り合いの方のお名前を伝えて、来客として招き入れてもらおうとも試みたけれど、誰ひとり受け入れてくれなかったと、そういうお話なんです。

みなさんのご迷惑にならなかったことで、安心する一方、うなだれる夫の顔をみて、やはりわたしも寂しい心持ちになりました。

夕方の退社時刻に合わせて、待ち伏せをしてみようか、いやそれはさすがに冗談だって、夫は哀しい笑みを浮かべています。

チョコレートは孫に送りました。いちどあげたチョコレートが追加で届いたものですから、大喜びのようです。それだけは、報われた気分ですね。


あれからしばらくして、ちょっとした用事があったものですから、夫婦そろって、夫の元勤め先の近所を通りかかったときのことです。

夫は寂しげな表情で、あるひとつのビルを見つめていました。

入れてもらえなかったビル、門前払いをされたビル。そんなことを考えているのでしょうか。


ただそのビルは、わたしの知る限り、夫の元勤め先ではありませんでした。通りをもう一本横に逸れた、別の建物のはずなんです。

わたしは、寂しげな表情で夫の横顔を見つめていました。

そんな物思いに耽っても仕方ありません。我に返ったわたしは、夫の腕を引っ張り、さぁお夕食の買い物をして帰りましょうと、足取り軽く帰路に着くことにしました。


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野暮用で元勤め先の近くを通ったとき。

あぁ情けないことに先日は、会社に入れてもらうことも、取り次いでもらうことも叶わなかった。しかしそんなことはどうでもよい。


妻が横に居るにも関わらず、つい気を取られてしまった。

ただあの女が勤めているというだけなんだ。もう相手にもされないのに、未練がましく、俺は元取引先の、元愛人の勤めているビルを、ただぼうっと眺めていた。

出張ということにして、温泉に行ったな。それきりだったな。

今度、退社時刻に合わせて、待ち伏せをしてみようか。いやそれはさすがに、と我ながら苦笑する。

妻が俺の横顔を寂しげに覗く。何かを悟られてはいないか心配になったが、これも過去の話だから、時効ということでいいだろう。

妻が俺の腕を引いて、デパ地下へ行こうと言う。今夜は俺の好きな、トンカツだそうだ。とてもとても、楽しみだ。





































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