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『ドラゴンボールの息子』

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ドラゴンボールシリーズの脚本家『小山高生』と そのボンクラ息子の世にも奇妙な家庭の物語。 少しでもみなさんに楽しんでもらえたら嬉しいです。
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2019年1月の記事一覧

『ドラゴンボールの息子』その12「我が家の映画教育」

『ドラゴンボールの息子』その12「我が家の映画教育」

僕は子供の頃から、
本を読むのが本当に苦手でした。

『でした』とは克服した人の言い方で、厳密に言えば『今』も苦手です。

『お前は、もっと本を読まなきゃダメだ!』

脚本家である父から、何度この言葉を言われてきたかわかりません。

実際、子どもの頃に読んだ記憶がある本といえば、夏休みの読書感想文を書くために「この短さなら、お前でも読めるはずだ」と父が用意してくれた芥川龍之介の短編『蜘蛛の糸』くら

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『ドラゴンボールの息子』その11「僕とナッパのおじさん」

『ドラゴンボールの息子』その11「僕とナッパのおじさん」

僕は子どもの頃にアニメ脚本家の父に連れられて、声優さんたちが映像に声を吹き込む作業、通称『アフレコ』の見学に行くことがありました。

その頃には気づいていませんでしたが、これも我が家の特殊な環境のひとつだったに違いありません。

ある日、父が主宰していたぶらざあのっぽが原案を務めた「アイドル伝説 えり子」という作品のアフレコ見学に出かけました。

この作品の収録が行われていたのは新宿のとある雑居ビ

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『ドラゴンボールの息子』その10「我が家の危険なアネキ」

『ドラゴンボールの息子』その10「我が家の危険なアネキ」

僕には3才年上の姉、瞳(ひとみ)がいます。

我が家には個性豊かな両親がいますが、
この姉がまた強烈な人なんです!

まずはこの写真をご覧ください。

姉に鬼の仮面を押さえつけられ、
力なくじっとしている当時の僕の姿。

これをひと言であらわすならば、
『無条件降伏状態』であります!!!

この頃の姉は僕に対して、
強烈な『敵意』を持っていました。

というのも、姉は甘えたい年頃だったにもかかわら

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『ドラゴンボールの息子』その9「ぶらざあのっぽは夢の国」

『ドラゴンボールの息子』その9「ぶらざあのっぽは夢の国」

父はアニメ脚本家として多くの作品を世に残しましたが、それ以上に多くの「人」を残してきたのです。

『ぶらざあのっぽ』

父は多くの才能ある若者を集めて脚本家集団を作り、こんなふうに名付けました。

194cmある「のっぽ」な父とその兄弟たちという意味です。

昔のアニメファンの方なら、こんなスタッフロールをご覧になった方がいるかもしれません。

僕が物心ついた頃に父はすでに「ぶらざあのっぽ」を作り

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『ドラゴンボールの息子』その8「父との思い出」

『ドラゴンボールの息子』その8「父との思い出」

僕には子供の頃の父との思い出が
ほとんどありません。

今まで書いてきた通り、父はアニメ脚本家として多数のレギュラー番組を抱えていただけでなく、多くの弟子たちの面倒も見ていました。

あの頃の父に、僕のための時間など作れるはずもなかったです。

親子で一緒に出かけたり、スポーツをした経験も少なく、勉強を教わった覚えもない。

そんな親子関係だったので、僕は父と話すのがあまり得意ではありませんでした

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『ドラゴンボールの息子』その7「あかほりさんのファミコン」

『ドラゴンボールの息子』その7「あかほりさんのファミコン」

僕の父・小山高生は、脚本家集団『ぶらざあのっぽ』を結成して数多くのお弟子さんたちをアニメ業界へと送り込みました。

『ぶらざあのっぽ』がどんな場所だったのかを語るのはまだ、もう少し先にするとして……

父のお弟子さんの中に、
あかほりさとるさんという人がいました。

あかほりさんは後に『ライトノベル作家』として数多くのヒット作を生み出し、累計2000万部以上を売り上げるビッグな人物になるのです。

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『ドラゴンボールの息子』その6「初めての授業参観」

『ドラゴンボールの息子』その6「初めての授業参観」

今回は僕が小学一年生の時のお話。

僕は194cmある父の遺伝子を受け継ぎ、『体』のサイズはクラスで一番の健康優良児でした。

でも、『心』の成長は遅かったらしく、
他の子よりもずいぶん幼かったようです。

小学校に入学して、初めての授業参観の日。

我が子の成長した姿を楽しみに学校へやってきた母は、教室でまさかの光景を目にしました。

なんと僕は、先生が立つ教卓の真横に机を置いて授業を受けていた

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