小山 真 / 脚本家
ドラゴンボールシリーズの脚本家『小山高生』と そのボンクラ息子の世にも奇妙な家庭の物語。 少しでもみなさんに楽しんでもらえたら嬉しいです。
僕はアニメ脚本家を父に持ったおかげで、小さい頃から「アニメ業界」を近くで見られるという、ありがたくも特殊な環境で育ちました。 今回は、そんな僕が経験した「声優さんとの思い出・第2弾」をお送りいたします。 第1弾は『ドラゴンボールの息子』その11として、ドラゴンボールのナッパ役の声優として知られる飯塚昭三さんとの思い出を書かせていただきましたので、よろしければこちらも合わせてご覧ください。 さてさて、みなさんもそうだったかと思いますが、子供の頃には自分が見ているアニメ作品
僕がまだ、小学5年生だった夏の頃の話。 国語の授業で『俳句・川柳を作ってみよう』という課題が出ました。 なんでも、東京都主催の小学生俳句コンクールが開催されるらしく、学校のみんなで作品を応募することになったようなのです。 俳句ってなんだか、難しそうだなぁ…… 僕の第一印象はそんな感じでした。 家に帰って母にそのことを相談すると、それは父に教わるのが1番だと言うのです。 てすが、当時の父は山ほど作品を抱えていたので、僕は子供ながらに『こんなことを相談したら怒られるんじ
これまでうちの父は、いつも常人では思いつかないアイデアで家族を楽しませてくれた……というか、大いに振り回してきました。 でも、そのおかげでいい勉強をさせてもらったこともたくさんあります。 これは、僕がまだ小学生の頃のお話。 当時はまだ、祖父と祖母が同じ敷地の中で暮らしていました。 そんなある日、我が家に突然、大きな『自動販売機』がやって来たのです。 そうです……美味しいジュースを24時間、自分の好きな時に買えちゃうアレです! これは父が当時、定年で仕事をリタイアし
僕は小学生の頃、プロ野球選手を始めとした有名人のサイン集めにハマっていました。 もともと脚本家だった父のおかげで、色々なジャンルの人からサインを頂くことがあり、子供ながらに『コレクター魂』が育っていったんだと思います。 そんな僕はよく、友だちと一緒にプロ野球選手たちが宿泊するホテルで出待ちをしてサインをもらっていました。 有名な選手が目の前でサインしてくれた時なんか、もう大喜びで家に帰って両親に自慢したものです。 その中でも特に大切な思い出は、世界のホームラン王である
さてさて、今回は僕が「父のお弟子さんから頂いたプレゼント」をテーマにお話ししていきたいと思います。 以前からたびたび書いてきましたが、父はアニメ脚本家として多くのお弟子さんたちを育成してきました。 僕が物心を着いた頃には、すでに父のもとには脚本家を志す多くの若者たちが集まって、デビューに向けて研鑽を積んでいました。 当時まだ子供だった僕は、お弟子さんたちからたくさんの「プレゼント」を頂いたんです。 僕が化石を好きだと言えば、 「三葉虫の化石」が! 僕が広末涼子を好き
僕には子供の頃に、心から楽しみにしていた 『お祭り』がありました。 みなさんはお祭りと聞いて、 なんの行事を思い浮かべましたか? 花火大会……? ハロウィン……? クリスマス……? いやいや! そこは、『東映アニメフェア』でしょ!!! もはやこの単語だけで、懐かしさに悶えている方がいらっしゃるかもしれません。 90年代、おそらく日本中の子どもたちが楽しみにしていたアニメ映画のお祭りです! 念のために、今の若い人たちのために説明しておきますね(笑) 東映アニ
僕は子供の頃から、 本を読むのが本当に苦手でした。 『でした』とは克服した人の言い方で、厳密に言えば『今』も苦手です。 『お前は、もっと本を読まなきゃダメだ!』 脚本家である父から、何度この言葉を言われてきたかわかりません。 実際、子どもの頃に読んだ記憶がある本といえば、夏休みの読書感想文を書くために「この短さなら、お前でも読めるはずだ」と父が用意してくれた芥川龍之介の短編『蜘蛛の糸』くらいなものです。 そんな『本嫌い』な僕がなんとか脚本家として生活が出来ているのは
僕は子どもの頃にアニメ脚本家の父に連れられて、声優さんたちが映像に声を吹き込む作業、通称『アフレコ』の見学に行くことがありました。 その頃には気づいていませんでしたが、これも我が家の特殊な環境のひとつだったに違いありません。 ある日、父が主宰していたぶらざあのっぽが原案を務めた「アイドル伝説 えり子」という作品のアフレコ見学に出かけました。 この作品の収録が行われていたのは新宿のとある雑居ビルで、子供の僕からすると見るからに怪しい雰囲気が漂っていました。 中に入るとそ
僕には3才年上の姉、瞳(ひとみ)がいます。 我が家には個性豊かな両親がいますが、 この姉がまた強烈な人なんです! まずはこの写真をご覧ください。 姉に鬼の仮面を押さえつけられ、 力なくじっとしている当時の僕の姿。 これをひと言であらわすならば、 『無条件降伏状態』であります!!! この頃の姉は僕に対して、 強烈な『敵意』を持っていました。 というのも、姉は甘えたい年頃だったにもかかわらず、弟の僕に母を取られてしまった感覚があったからです。 ここまでは、まぁ『普通
父はアニメ脚本家として多くの作品を世に残しましたが、それ以上に多くの「人」を残してきたのです。 『ぶらざあのっぽ』 父は多くの才能ある若者を集めて脚本家集団を作り、こんなふうに名付けました。 194cmある「のっぽ」な父とその兄弟たちという意味です。 昔のアニメファンの方なら、こんなスタッフロールをご覧になった方がいるかもしれません。 僕が物心ついた頃に父はすでに「ぶらざあのっぽ」を作り、多くの若者たちと共に活動をしていました。 父は子供である僕と姉にはいつも、「
僕には子供の頃の父との思い出が ほとんどありません。 今まで書いてきた通り、父はアニメ脚本家として多数のレギュラー番組を抱えていただけでなく、多くの弟子たちの面倒も見ていました。 あの頃の父に、僕のための時間など作れるはずもなかったです。 親子で一緒に出かけたり、スポーツをした経験も少なく、勉強を教わった覚えもない。 そんな親子関係だったので、僕は父と話すのがあまり得意ではありませんでした。 締め切り前のイライラした父に話しかけて、『バカ野郎!』と怒鳴られたことは数
僕の父・小山高生は、脚本家集団『ぶらざあのっぽ』を結成して数多くのお弟子さんたちをアニメ業界へと送り込みました。 『ぶらざあのっぽ』がどんな場所だったのかを語るのはまだ、もう少し先にするとして…… 父のお弟子さんの中に、 あかほりさとるさんという人がいました。 あかほりさんは後に『ライトノベル作家』として数多くのヒット作を生み出し、累計2000万部以上を売り上げるビッグな人物になるのです。 世間には「外道キャラ」として有名ですが、弟子入りした当時はまだ、明治大学に通う
今回は僕が小学一年生の時のお話。 僕は194cmある父の遺伝子を受け継ぎ、『体』のサイズはクラスで一番の健康優良児でした。 でも、『心』の成長は遅かったらしく、 他の子よりもずいぶん幼かったようです。 小学校に入学して、初めての授業参観の日。 我が子の成長した姿を楽しみに学校へやってきた母は、教室でまさかの光景を目にしました。 なんと僕は、先生が立つ教卓の真横に机を置いて授業を受けていたんです。 どうやら本当に落ち着きのない子供だったらしく、先生が特別にその位置に
エッセイを書くのは本当に難しいなぁ。 ネタ選びはもちろんのこと…… 読みやすいリズムや言葉遣い。 少しでも多くの人に楽しんでもらうためにも、 どんどん研究して変えていけたらと思ってます。 『動中の工夫は静中に勝ること百千億倍』 この気持ちで、続けていきますね!
2018年、ようやく自分発信で動き始めました。 来年は少しでも多くの方々に、記事を楽しんでもらえるようにがんばります! 1つでも多く。1つでも楽しく。 仲間がたくさん増える年を目指して。
『アニメ脚本家』の父がいたおかげで、我が家は一般の家庭とはだいぶ違う生活サイクルで生きてきました。 今回は『あれは普通じゃなかったんだ!』と、後に感じた小山家の生活をご紹介します。 1.学校へ出かける時にいつも父親は寝ている。 僕は毎朝いつも『どうしてお父さんは、あんなに寝てるのに許されるんだろう……』と疑問を抱きながら学校に出発していました。 脚本家という生き物は、基本的に真夜中に執筆をする『夜型人間』が多いんです。 自分が脚本家になってみて良くわかります。 夜