救われるだけの人生。

とある過去の、その当時に大切にしていた気持ちなんてほとんど覚えていないし、その当時に抱いた感情なんてほとんど溢れてしまっているから、いまのわたしに過去のわたしのことは何もわからないけれど、たまに、本当に些細なことをきっかけに蘇るものがある。わたしの場合はそのほとんどが”匂い”をきっかけにしたものなのだが、それと同じくらい、小学生の頃から聴き続けているとあるロックバンドの曲が引き金になることがある。死にたかった夜、死んだほうがマシだと思った夜、生まれてこなければよかったと思いかけた夜、わたしを産むために踏ん張ってくれたお母さんの努力を無駄にしかけた夜、わたしに対して注がれた無償の愛を返せないと知った夜に聴いた「あの曲」は、数年経ったいまでも、その頃に抱いた感情を呼び戻す。

このロックバンドに、この曲たちに、何度生かされてきたかわからない。感謝の気持ちが芽生えると同時に、わたしのような凡人には誰のことも救うことができないのだと思い知らされる。誰かに救われるだけの人生。でもせめて、この曲をつくる彼らに救われる人生でよかったと思う。せめて、誰かには救われる人生で、良かったと。

コロナが流行って以降はライブ会場に行く機会が減ったけれど、そろそろパワーをもらいに行きたいと思う。配信される動画や、ライブを収録したBlu-rayでは受け取れないほどの鮮明で透明なパワーを、他人ひとに与えられる人たちから受け取りたい。そうすることでしか、この変哲もない日々を愛せない人がいる。人間とはそういう、弱い生き物だ。曲を聴くことで「ふつう」に擬態して、まだやれると自分に言い聞かせることでしか生きられない。

とあるロックバンドのことを、わたしは自分から「〇〇が好きです」とは言わない。口が裂けても言いたくない。彼らもまた、「ふつう」への逆張りとして創造を続けてきた人たちだから。どんな曲を聴くの?と訊かれたら名前をお借りするけれど、例えばツイッターのbio欄に書くことはなんだか、彼らのポリシーとズレているような気がする。まあ、気がするだけかもしれないが。数年前にわたしを救ってくれた”とあるロックバンド”のとある曲が流行って、いわゆる大衆にもウケるようになってからは、新曲を出したりツアーをしたりする頻度が増えた。とても嬉しいことだ。わたしの周りでも”とあるロックバンド”を好きだと公言する人が増えた。わたしは喜ばしい反面、とあるロックバンドを好きだという共通項があるというだけでは相手のことを信用できないな、と思うようになった。とあるロックバンドの名前を出して、「俺○○の曲全部知っているぜ。▲▲の頃からずっと聴いてるわ」という輩ほど、とあるロックバンドの逆張り主張の”対象”そのものだったりする。お前たちみたいな大衆が大声でわかりやすい正解を叫ぶから、端っこに寄せられているひとたちがいる。声が届いて欲しいひとたちにほど、届いても伝わらないことが多いのかもしれない。

大衆にウケることは売れること。そして、売れることはスベることだ。わたしもそう思う。


それではまた。


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