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社会不適合者、とは言えない程度の。

2022年3月3日に書いて眠らせていた下書きを成仏させます。



これは、心の状態があまりよくないときに書いている文章である。こういう「前置き」をしていれば何を書いても許されるのかと言われればそんなことはないが、一応これを書いておくのは、わたしが心のどこかではまだ「良い人でありたい」と思っているからで、「四六時中こういう捻くれ方をしているわけではない」と自分自身のことを擁護したい気持ちがあるからだ。


なんとなく生活の中に雑音を織り交ぜたくなって、久しぶりにつけたテレビの中は戦争の話で持ちきりだった。21世紀にもなって武力衝突が起こることを信じられないと思う気持ちと、自覚的であっても止められない加害性というものはどの人間の中にもあるんだよな、というある種諦念のような気持ちが錯綜する。某局の夕方のニュースでは、地方の駅前で戦争反対の署名をしている高校生のインタビューが流れていた。正義という2文字に対して何の疑いも持っていないような、澄んだ目をした彼は「いても立ってもいられなくて、自分にできることは何かないかと考えた結果、署名活動をすることにした」と話していて、それを見たわたしはこの子はガクチカのためにそれをやっているのかなぁと思った。彼は数年後、面接官の前で言うのだろう「自分が高校生だった頃にウクライナで戦争が起きました。自分と同じ地球に生きている同じ人間が起こした戦争を目の当たりにして、一人の人間には何も出来ないんだという無力さを感じると共に、それでも何かできることはないかと考え駅前で戦争に反対する人の署名を集めることにしました。その経験を通じて私は~~~~~~を学び、~~~~~(省略)御社の○○という理念に深く共感し~~~~事業を通じて~~~いう人材になりたいです。」コロナ禍で活動が制限されている中で、ガクチカを作るのは難しいと聞いた。しょうもないと思った。

わたしは就活をしている時、他人のガクチカを聞かされる時間が大嫌いだった。ウケの良さを最優先にした「自分にしかできない経験」を耳にするたびに湧き出てくる小さなゲロを飲み込んでいた。上面な言葉をきれいに並べて入社してきた同期たちとの研修は苦痛だったし、恐らく「生きるって何だろう」という疑問に一度もぶち当たらず、自分の人生を恨んだことがないやさしい先輩方の「まとまりの良い言葉たち」にうんざりしていた。

ひとりのサラリーウーマンとして、それはそれでうまく生きられているとは思う。朝は強いし仕事はできるし人当たりもいい。わかりやすく「社会不適合者」だったら、もう少し割り切れていたのかもしれない。サラリーウーマンとしての生活は悪くない。給料も良いし、社会的役割が確保されているので精神的にも安定している。でもそれと同時に、わたしはどう頑張って擬態しても人間社会が嫌いなんだと思い知らされる。23歳のわたしは、そういう日々を生きている。



それではまた。

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