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冬のにおいと意味を持たない涙。

ずっと、泣き出しそうな状態で過ごさねばならない日々というのがたまにくる。いま、まさにそれで、何がトリガーになってもおかしくないくらいギリギリの状態で生きている。「息を吸って——」と意識しなければ、呼吸をすることができない。ぼーっとしていると、どんどん息苦しくなっていく。頭も身体も心もきっちり疲弊していて、それはきっと、勝手に詰め込まれたタスクたちのせいだ。明日はおやすみをいただいている。朝はのんびりと散歩をして、日中は掃除と洗濯をしようと思っている。深煎りの珈琲を飲みながら、文庫本を読み進められたら幸福だろう。夜は彼に会える。明日訪れるであろうたくさんの幸福たちのことを考えながら、どうにかきょうを生きた。


人間は弱い生き物だから。傷つくことを恐れずに生きられるわけはないけれど、傷つくことを必要以上に恐れる生き方はもういいやと思っている。傷つくことでしか生まれない感情や、そこから紡がれる神聖な文章があることを、わたしはnoteを利用するようになって知ることができた。感情の向くまま、直接心が指を滑らせて書いた記事は、自分で後から読み直してもおもしろいと思える。傷つかなかったら、何も感じなかったら、わたしは何も書けないだろう。何かしらを「創造」することすら、できなくなる。生きるためには——より善く生きるためには、わたしというひとりの人間が何かしらの創造に関わるべきだろう。何のためでもない、何の生産性もない、合理性のカケラもない、創造物を生み出しながら息をしたい。


傷つくことを恐れて、心を厚いプラスチックで覆ってしまうこともできる。たぶんつまらなくなると思うけれど、少なくともいまのような「泣き出しそうな状態」に怯えることはなくなるはず。号泣する夜も来なくなるだろうし、通り魔のような正義に傷を抉られることもなくなるだろう。見たいものだけをみて、得たいものだけを得て、聞きたいことだけを聞いても、それなりに生きていける時代だから。それはそれで、ひとつの人生だ。

それでもわたしは、心を露わにしながら生きたいと思ってしまう。泣きたくなるような日々があったとしても、傷つくことでしか得られない何かがあると信じていたい。いまは、まだ。


意味をもたない涙を、わたしは老廃物だとは思わない。冬のにおいを嗅いで泣き出しそうになっても、彼の笑顔を想像して息ができなくなっても、外気に触れるたびに心がチクリと傷んでも、「そっちの方が人間らしい」と慰めてあげたい。薄情な母親に電話口で、「相変わらず生きにくそうだね」と笑われたとしても、わたしの選んだ人生は人間らしくて、創造的で、温度があって、やさしいものだったと胸を張って叫びたい。


彼のいう通り、「諦めきる」には早すぎると思うのです。


それでまた。

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