終わらせたい日。
もう「死にたくなる」ことはないと思っていた。でも、ふとしたときに「終わらせてしまいたい」という欲に支配されることがある。わたしは絶対に自死を選ぶことはないとわかっていても、そういう気持ちが自分の中に存在していることに傷ついている自分がいる。わたしも、生きているうちはどうにかなるという無責任極まりない言葉に慰められてきた人間だし、生きている人間には何かしらの役割が課せられていると思っているから、それを拒否するなんてことはできない。わたしにそんな選択権は与えられていない。だから、自分で選んでこの人生を終わらせるというのはあくまでも数を合わせるために最後に付け加えられた「おまけ」の選択肢でしかない、と思っている。
SNS上で放たれている多数の「死にてぇ」という文字には色があるけれど、わたしの心でぽつり、静かに呼吸をしている「終わらせたい」に色はない。せめて息だけはしていようと、深く吸い込んだ空気が不味くて悲しくなった。青空の下に広がる森林の中で深呼吸をしても、ちっとも気持ち良いと思えなくて、地球からの励ましすら素直に受け取ることができなくなってしまった自分を見つけて、また泣きたくなる。
わたしの生命を繋いでいる細い糸は、些細なきっかけでぷつんと切れてしまうのではないか、と不安になることがある。辛い毎日から楽になりたいわけではない。ふつうに、何も考えずに、明日も明後日も生きていられる。ただ、無に戻りたいという欲求が、ふわっと、ぼんやりと顔をみせることがある。だからわたしは、特定の宗教を信仰しているわけではないけれど、(自らの選択で)死んでも無になれるわけではない、と思うことにしている。どうせ無になれないなら、どうにか「終わらせたい日」をやり過ごすしかない。明日は、そういう日じゃないかもしれない、という僅かな希望を抱いて。そして、残されたほうが辛いということもよく知っているので、母親と彼がわたしの近くにいてくれる間はただ存在するだけで良い、ということにしている。生きているだけではなまるだと。
わたしの一番仲の良い学友は、人生で一度も死にたいと思ったことがない男(21歳)と付き合ったことをいまでも後悔しているという。その元カレは、「消えたい」と呟く彼女に向かって『寂しいなら家族と過ごせばいい』と声をかけた。ぼんやりと「終わらせたい」と思ってしまう弱い自分に全く触れたことがないひとの言葉は、彼女の耳には届かなかった。それどころか、絶望すら感じさせたのだ。
この靄がかかった気持ちもいつかは忘れてしまうとわかっていても、話しかけてくる人に笑って応えることにすら疲れを感じる。放っておいてほしかった。仲の良い彼女も、本当は放っておいてほしかったのだと言っていた。せめてマスクと前髪の間だけは元気でいたいと、ヘラヘラしているわたしの横を通り過ぎた風の匂いは、大好きな人のものだった。少し離れた場所で、わたしの顔を覗いた彼の存在に、纏っている空気に、また助けられてしまった。大丈夫だ。「愛しいと思える人がいる世界なら苦しい日々も引き受けられる」と、きょうも思えることができたから。
終わらせたいと思ってしまう日があったっていいじゃないか。わたしたちは弱い人間だけど、微動する心を感じられるなら、まだ生きていられる。
きっと明日は終わらせたくない日になる。
それではまた。
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