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オー・ヘンリー「最後の一枚の葉」

オー・ヘンリー「最後の一枚の葉」(結城浩・訳)を朗読しております。

さて、オー・ヘンリーのこの作品は、ご存じの方が多いことでしょう。タイトルは、訳者の方によっていろいろです。

拙著でも、『最後の一葉』(中山知子訳・岩崎書店)について書いたものがありますので、その一部を紹介させていただきますね。

牧野節子『子や孫に贈る童話100』(青弓社)

小学生のときに初めて『最後の一葉』を読んだ私は、「なんだか嘘っぽい話だなあ」と思いました。フィクションであるということはもちろんわかっていたのですが、その時点でまだ、エゴが勝っている子どもであった私は、「人のために自分の身を削る」という登場人物の行動が、どうにもびんとこなかったのでしょう。にもかかわらずこの物語が心にしっかり刻み込まれ、ずっと忘れることができなかったのはどうしてでしょうか。

舞台はニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジ。芸術家やその卵たちが集まっている村です。そのなかの、レンガ造りの三階建ての家のてっぺんに、スウとジョンジーは住んでいました。画家志望の貧しい二人は、そこを共同のアトリエにしていたのです。

その冬は感冒が流行し、ジョンジーが肺炎になってしまいました。医者は、スウに告げます。助かる見込みは十に一つだと。それもジョンジーの、生きたいと望む気持ちの強さにかかっていると。スウは小説雑誌の挿絵の仕事をしながら、ジョンジーを看病します。

ジョンジーは窓の外を見つめ、数を逆に数えています。十二、十一……八、七、と。

スウが訊ねると、ジョンジーは中庭の向こうのくずれかかったレンガの壁をつたう、腐れかけた古いツタの葉を見つめながら、囁くような声で言うのでした。

あの葉の最後の一枚が落ちたら、自分も終わるのだと。もうくたびれてしまったの。すがりついていることにも、と。葉は、また一枚落ち、あと、たった四枚になりました。

スウは同じ建物の一階に住むベーアマンに、ジョンジーの話を聞いてもらいます。ベーアマンは六十過ぎの絵描きですが、芸術に見放された人でした。傑作を描く描くと言いながらいっこうに実行に移さず、酒ばかりをあおっている老人です。

その夜は嵐で、たたきつけるような雨と激しい風が、ひと晩じゅう続きました。

朝がきてジョンジーは、窓を開けてとスウにせがみます。しぶしぶ窓を開けたスウは驚きます。ツタの葉が一枚、レンガの壁にしがみついているではありませんか!

ジョンジーは気力を取り戻し快復に向かいます。そして二人は知るのでした。ベーアマンが肺炎で亡くなったことを。あの一枚の葉は、彼が嵐の晩に描いた傑作だったことを。

いまなら私はわかります。ベーアマンが、同じ志をもつ若者に捧げた愛。一世一代の作品に向かった心意気。それを立派に仕上げた際の充実感。画家としての誇り。

けれど小学生のときに読んでおいて、やはりよかったなと思うのです。そのときはきちんと理解できなくても、優れた物語は、読んだ子の心に、いい意味での痕跡をくっきりと遺すものです。「嘘っぽい」と毒づきながらも私は、この話を思い出すたびに、なぜかほかほかとした気持ちになったものです。ベーアマン老人の優しさに、そうとは気づかずに、すっぽりと包まれていたのでしょう。
(後略)

牧野節子著『子や孫に贈る童話100』(青弓社)第10章より


そうそう、「最後」といえば、先日の『相棒』の「最後の晩餐」、よかったです!
チャップリンの映画『街の灯』の使い方が粋で、どんでん返しも見事で、ラストはほろり。
脚本はどなただろうと思ったら、光益義幸さんという新進の方なのですね。今回の右京さん、いつも以上にかっこよくて、醸し出されるあたたかさも多めで、すごく素敵でした。

『相棒』は毎回もちろん楽しみですが、太田愛さんと古沢良太さんの脚本のときが特に好きです。今回「最後の晩餐」を拝見して、また、光益さん脚本の回を見ることができたらいいなあ!と思いました。

薫ちゃん復帰で今シーズンがラストではという噂ありの『相棒』ですが、まだまだ「最後」にはなってほしくない、続けていただきたいなあ…と願う1ファンです。

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