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「過酷な生い立ちだからって何をしてもいいの?」と言う人

こんにちは。

牧 菜々子です。

事件や、騒動が起こるたび…。

本人が不幸な生い立ちだったこと、過酷な状況だったことなどが注目されます。

そして必ず、こんな声が聞かれます。

「過酷な生い立ちだったら、何をしてもいいの?」

「かわいそうだからって、何をしても許されるわけじゃないでしょう」。

そんな声を聞くたびに、私は思ってしまうのです。

ちょっと話が早すぎませんか?

と。

話が早すぎる

不幸な生い立ち。

過酷な状況。

かわいそうな側面…。

事件や騒動の背景には、そのような部分があります。

その部分から、「だからって何をしてもいいわけではない」までが、早いのです。

場合によっては、「たしかにかわいそうだけど」の一言で済まされているものもあります。

「だからって何をしてもいいわけではない」までが、早すぎる。

そのことが、大きな問題だと思うのです。

一旦黙りたい

誤解のないように言いますが、「だからって何をしてもいいわけではない」という意見に、私は賛成です。

最終的には、そのとおりです。

ただ、そこに至るまでに、一旦黙りたいのです。

大変な状況だったこと。

過酷な環境だったこと。

目を覆いたくなるような、不幸な生い立ちだったこと。

そのことに対して、一旦黙る。

意識をしていなくても、そうなってしまうのです。

好ましい知性

もちろん、「過酷な生い立ちだからといって、何をしても許されるわけではない」というメッセージは、よりよい世の中にするために必要です。

端的に、「とにかく早く短く言う」ことで伝わりやすくなることも事実で、それも誰にでもできることではない高度な知性です。

それでも私は、「だからといって何をしても許されるわけではない」までが早い知性よりも、一旦黙ってしまう知性のほうが、好ましいと感じます。

背景に、思いを馳せる。

場合によっては、言葉にしたり、口に出したりしてみる。

そこに大きな意味があると思うのです。

こうして私は今日も、「たしかにかわいそうだけど」から「だからって何をしてもいいの?」までの早さを気にしながら生きているのです。