欠席

わたしは明日大学を休む。なにも体の不調がある訳ではない。心が絶不調なのである。

大学生というものは暇さえあれば授業をサボる生き物だと世間一般に認識されているが、それに比してわたしは真逆を行くスタイルだ。全ての授業にきちんと出席し、出された課題は期限までに提出し、場合によっては予習もする。単位に関係の無い授業でも興味があれば履修登録する。いわば大学生界の劣等生である。というのもわたしの母は、わたしが学校を休むのを嫌がるタイプだったので、何があっても学校へ行くという精神が深く根ざしていた。その上、わたしの性格上、きちんとしたものをきちんとするのが好きなのだ。そのため実家暮らしの高校生まではほとんど学校を休んだことがなかった。

しかし先日、偏頭痛になってしまい、午後の一コマだけではあったが授業を欠席した。致し方ない欠席である。しかしながら、その時わたしは「そうか、わたしの意思や体調を加味して、自分で学校を休むことを決めてもいいのか」と気がついた。青天の霹靂である。わたしの大学では5回以内の欠席であれば単位に響かないし、何せわたしは超劣等生(大学生界)である。一、二回の欠席ではなんてことはない。なぜ今まで閃かなかったのだろう。わたしはわたしの意思で決めてもいいのだ!

さて、本題へ戻ろう。わたしはここ最近「価値観」というものに悩まされている。端的に言うと人とわたしの価値観は違うのだ。例えば、語弊を恐れずに言えば、わたしはスポーツ選手をやたらと持ち上げる意味がわからない。確かに自分にはできない事をやっているなとは思うが、スポーツという分野がものすごく得意な人なんだな、くらいにしか思わない。そりゃ人間なんだからそれぞれに得意な分野も不得意な分野もありましょう、と思う。そんな価値観のため、やたら凄い凄いと称えるのはなぜだろうと思う。穿った見方をしているだけだ!と言われてしまえば、はいそうですと言うしかないのだが、こういった些細な価値観の違いが徐々に苦しくなってきた。

わたしの価値観を「それは違うよ」と真っ向から否定されてしまうと、わたしは普通じゃないと言われているような気持ちになる。普通=正しい、だとは思わないが、なんにせよ否定されてしまうと辛い。わたしの価値観を理解して欲しいと思うことは浅ましいことであるということを分かってはいるのだが、自分の価値観を認めて欲しいという承認欲求はある。上記のスポーツ選手の例だけではなく、様々な場面でそういったことが起こると、わたしは人間としてなにかを欠いているのかもしれないと恐ろしくなる。

自分を認めたい気持ちと、世間の常識とに折り合いがつけられず、気持ちは限界だった。人に会いたくなくなったのだ。一人にしてほしいという気持ちだ。昨日からSNS等を全て断ち、誰とも連絡を取るのをやめた。疲れてしまった。わたしは間違っているのだろうか。

心の不調で休んでもいいのだ、たぶん。早く心の健康を取り戻したい。なんとか折り合いをつけなければ。明日はゆっくり心穏やかに過ごしたい。

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