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映画「流浪の月」を観て。~性的虐待被害者の感想~

映画「流浪の月」を観てきました。
「濡れ場」をはじめ、センセーショナルなシーンと重いテーマが話題となっており、「気持ち悪い」という意見も多数出ているようです。

原作は読んでいない為、あくまでも映画のみを鑑賞した個人的な感想です。
そして、映画の感想というよりも、
映画のあらすじと共に、私自身もまた、性的虐待の被害者として思うことを書き綴りたいと思います。

映画「流浪の月」のあらすじ(※ネタバレを含む)

2022年5月13日(金)公開となった「流浪の月」は、
2020年本屋大賞を受賞した凪良ゆうのベストセラー小説を、
李相日監督広瀬すず松坂桃李の主演で映画化した作品です。(敬称略)

更紗と文の出会い

ある日の夕方、公園のブランコで本を読みふける10歳の少女・家内更紗
突然の雨に見舞われ、少女は傘を持たず、
すぶ濡れになりつつも、読んでいた本が濡れるのを防ごうと、
身体で本を守ろうとする。

同じ公園で想いにふけっていた19歳の大学生・佐伯文
遠くから少女の様子を見守っていたものの、
一歩もその場から動こうとしない様子に何かを感じたのか、
側に近づき、傘をさしかける。

映画では、文が「ロリコン」となじられ、
逮捕される様子の動画が映し出され、
不穏な空気を感じさせる。

ファミレスに勤める、大人になった更紗が、
当時の噂話に心を痛めるシーンもありつつ、
今現在は恋人・中瀬亮と共に暮らし、結婚も決まっていて、
過去に色々ありつつも、性生活を含め、今の幸せを大切にしている様子が描かれている。

「亮くん、私、亮くんが思うほど、可哀想な子じゃなかったよ。」
更紗のセリフの意味が、映画が進むにつれて明らかになる。

誘拐ではなかった真実

更紗には、自宅に帰りたくない事情があった事。
文は更紗を誘拐したのではなく、
「帰らないの?」⇒「帰りたくない」⇒「うち来る?」⇒「行く!」
という流れで、更紗が自らの意志で、
自宅に帰るよりも、目の前に現れた繊細で優しそうな「お兄さん」を選び、
その人の自宅に行く事を選択したことが分かる。

そして、そのまま2カ月を文の部屋で自由に過ごし、
これまで大人達に制限されてきたであろう、
自分のやりたい事の全てをやり尽くし、とても幸せそうに暮らしたこと。

そして、共に暮らす文を心から信頼し、
誰にも言えない秘密、「帰りたくない事情」(性的虐待)を打ち明けたこと。

世間が偏見で見るような、性的な関係はなかったこと。

これらのエピソードがキラキラとした美しい映像で映し出される。

まるで二人は、心の傷を持ち寄った兄妹のようにも感じられたし、
「同志」のようにも感じられた。

やがて文は、更紗を誘拐した罪で逮捕される。“被害女児”とその“加害者”という烙印を背負って生きることとなった二人ではあるものの、
その真実はいかに。

もっとも心の闇が深い登場人物は誰か

性的虐待やクラインフェルター症候群による性腺機能不全など、
根底に流れるテーマはとても重い。

さらには、この物語の登場人物の中で、
誰よりも心の闇が深いのは、更紗の恋人である亮なのではないかと、
個人的には感じられる。

何か特別な事情を抱え、「帰る場所がない女性」を選択して愛し、
そういう女性ならば、決して自分を捨てたりしないと思い込み、
支配しようとする。

時に暴力で支配し、そうかと思えば弱さを見せつけ、振り回す。
なんとかして相手を繋ぎとめようと必死になる様は、
見ていてとても痛々しかった。

まるで母親のような無条件の愛を求め、
相手のありのままを尊重し、愛する事が出来ないのは、
亮自身が、女性ばかりの家庭の中で育ち、
厳格な父親の期待を裏切らぬよう、生き辛さを抱えて生きてきたからだと推測される。
(原作を読んでいないので、映画のワンシーンや亮の実家と家族との会話の様子から推測。)

運命の再会

ある日、更紗は偶然立ち寄ったカフェで文と再会し、
再び二人の運命が動き始める。

最初は気付かないフリをしていた文だったが、
想い通りにならない更紗に苛立ちを覚え、
暴力をふるった亮の元から逃げ出し、文の元へと逃げ込んだ更紗を、
文は静かに受け止める。

どこで何をしていても、二人が共に寄り添おうとするだけで、
世間の偏見に晒される。

人は皆、物事を自分の見たいようにしか見ない。
可哀想な更紗は、変態ロリコンの文にマインドコントロールをされ、
大人になってからも、ネガティブな感情を持たぬよう、支配されている。

世間はそんな風に二人を見るが、
二人が共に過ごした時間が、きっと宝物のように素晴らしい時間だったに違いない。

再び襲い掛かる試練と苦悩

過去を乗り越え、なんとか強く生きていこうと、
お互い、恋人を作り、相手を大切にしようと試みるも、
やはり「性」の壁に阻まれ、傷を拭い去ることは出来ない。

更には、更紗の勤務先の友人であるシングルマザーが、
新しい幸せを見付けようと、
更紗に娘を預け、恋人と旅行に行ってしまい、
なかなか帰って来ない状況に見舞われる。

良かれと思ってその子の面倒を見る文は、
再び、世間の偏見に晒される。

更紗の恋人、亮により居場所を晒され、
嫌がらせを受け、恋人にも立ち去られた文。

とうとう更紗に自分の本当の姿を晒し、
何故、自分が「繋がる」事ができないのかを涙ながらに話す。
文を優しく抱きしめる更紗。

誰にどう思われてもいい。
二人で流れ着き、辿り着いた終着点に幸あれと、心から願う。

個人的に思うこと

この先は、毒親育ちかつ性的虐待を受けて育った私が、
独自の考え方で感想を書き綴ります。
もし、ご不快に思う方々がいたら申し訳なく思いますが、
あくまでも私の個人的な見解ですので、ご容赦頂けますと幸いです。

過去記事にて、毒親育ちと性的虐待については記述しておりますので、
ご参考にして頂ければと思います。

毒親育ち~心に秘めた闇に光を~

性的虐待・性暴力を受けた者のその後

性的虐待について

根底にこのテーマを描く作品は、とても多いです。
実のところ、公にはなっていないだけで、
家庭内での性的虐待の被害者たちは、大勢居ると思います。

なんとなく、「身内の恥」のような認識があり、
それを公にする事で、「可哀想」だという偏見に晒されること、
それだけではなく、一部のマニアたちの好奇の目に晒されることを恐れ、
多くの被害者たちは、一生誰にも口外することなく、
静かに息をひそめるのです。

大抵の場合、加害者は忘れているか、
もしくは「大した事ではない」と、軽く考えている事が多いものの、
被害者たちは、一生消えることのない心の傷を背負い、
生きていかなければならないのです。

・一切の性的情報を排除し、男性との接点を持たずに生きる
・必要以上に魅惑的に接し、男性に復讐をしながら生きる

私は前回のnoteで、性的虐待や性被害に遭った女性殆どの場合がこのどちらかの道を辿ると記述しました。

でも、そのどちらにも当てはまらず、
なんとか強く生きようとしている人達が居ることも、知っています。

・表面的には性を受入れるが、心が頑なに拒絶する。
・心を託す人が出来て受け入れられても、身体が真の喜びを感じる事が出来ない。
・信頼出来るパートナーと巡り会い心身ともに満たされる喜びを知るも、心のどこかで古傷が傷む。

むしろ、こういう人達の方が多いのではないかと感じています。

映画「流浪の月」の主人公である更紗は、
・表面的には性を受入れるが、心が頑なに拒絶する。
本当は嫌なのに、それを悟られないように受け入れる努力をしているように見受けられました。

性的虐待を受けて育った人間は、
自分の身体を大切に扱う事が出来なくなるのです。

自分には性を拒絶する権利などなく、
大切に扱われるべき身内さえ、粗末に扱った身体など、
何の価値もなく、世の中の男性達に粗末に扱われて当然なのだという、
誤った認識を持ってしまうことがあるのです。

私自身もまた、同様に「性」に対して歪んだ認識を持ち、
自分自身を大切にする事が出来ず、まるで自分の「性」を道具や武器のように扱い、生きてきました。

・必要以上に魅惑的に接し、男性に復讐をしながら生きる
この道を選択した私は、
男性との恋愛や性愛に対して、「自らが主導権を握る事」で、
二度と傷付けられない自分を確立していったのですが、
どこかで、すぐに一線を超える男性を見下し、軽蔑していました。

反面、どんなに魅惑的に接しても、
私を大切に扱い、女性としてではなく、一人の人間として尊重し、
揺るぎない愛で接してくれる「男友達」の存在に、
どれほど救われ、癒されてきたことか、
感謝してもしきれません。

私達、性的虐待の被害者には、
映画「流浪の月」の文のような、「ただ側に寄り添ってくれる男性」が必要なのです。

自身の恋愛経験に基づく「性愛」

私が本気で好きになり、長年共に過ごしたパートナーは、
何故か全員、性的な問題を抱える男性達でした。

彼らはそれに気づき、コンプレックスを抱えつつ、
苦しみながら生きてきた人達でした。

ある者は、映画「流浪の月」の主人公、文と同じく、
クラインフェルター症候群による性腺機能不全。
彼から詳しい話を聞いた訳ではないし、推測に過ぎないものの、
形状や機能的な問題から考えると、恐らくはそれに該当するのではないかと思われます。

また、ある者は外科的手術を要するような、
大変珍しい形状の異常を抱え、私と交際を始めてから手術を受け、
形状も機能も改善はしたものの、正常になることはありませんでした。
(大変有名で、皆様のよくご存知の形状ではなく、本当にごく稀にしか存在しないケースでした。少々露骨なお話になる為、こちらの記事では具体的な記述を差し控えたいと思います。一つだけ言える事としては「湾曲」にまつわる形状の異常です。)

この他にも、射精障害やEDなどの問題を抱える男性達が多く、
もしかしたら、これは私が引き寄せているのかも知れないと感じていました。

彼らに共通して言えることは、
「性」に対して、何らかのコンプレックスを持ち、自信を持つ事ができない。
だからこそ、それ以外の「心の繋がり」を追い求め、
男女の愛というよりも、深い人間愛で接し、私を大切にしてくれたということです。

当然のことながら、お互いに想いを伝え合い、
交際をスタートさせても、そういう関係になるのはとても遅かったですし、
ただ側に寄り添い、手を繋いで眠ることの心地よさと素晴らしさを、
私に教えてくれた人達です。

私自身が、まず自分から性的虐待を受けた過去を話したことで、
彼らもまた、自分のコンプレックスを私に伝え、
ありのままの自分で向き合ってくれたことが、とても嬉しかったです。

このような、自身の経験から言えることは、
男女の交際において、「性愛」は必要不可欠なものではないということです。

もちろん人にも寄りますし、それぞれ考え方も違います。
「流浪の月」の文のような男性であっても、
誰かを愛する権利はあるのだし、そういう男性を心から愛する女性も存在するということを、私は声を大にして伝えたいのです。

どんなあなたも、あなたのままでいい。
必ず、あなたのありのままを愛してくれる人と巡り会えるから。

お互いに、嫌なことを無理してしなくて良いと思うのです。
大人の男女にとって、「性愛」は避けて通ることの出来ないテーマでしょう。
そしてまた、妊娠や出産を望む女性なら、それが可能な男性を求めることも納得できます。

それでも、世の中にはそうではない女性も大勢いるということと、
そのコンプレックスこそが、女性の心の傷を静かに癒し、
誠実で優しい男性だと感じられる場合もあるということを、
もし、自分の身体にコンプレックスを感じる男性が居るのなら、
どうか心の片隅にでも、留めておいてください。

また、男女ともに、どのような過去があり、どのような身体的特徴があろうとも、人として本能的に湧き上がる欲求を、
決して否定しなくて良いのです。

どのような形であれ、好きな人とと愛を育む手段はあります。
あなたのありのままを愛してくれる人は、必ず現れますよ。

おわりに

皆それぞれ、心に傷を抱えて生きていますね。
目には見えないからこそ、勇気を出して伝えなければ、
その心の傷を、誰も知ることは出来ないのです。

心の内を吐露して、誰かに話す事で楽になる人達も居れば、
心の奥底に封じ込め、誰にも言わない事で自分を守る人達も居ます。

でも、決して「無かった事」になど出来ないのだと、
個人的には思っています。

表面的に、なんとか誤魔化し、
心の傷を見て見ぬフリをして暮らしていても、
どこかで顔を出し、それらと向き合わなければいけない事があるのです。

或いは、生きている限り、
一生付きまとい、完全に心の傷が癒えることなど、ないのかもしれません。

「それでもいいじゃないの。」と、私は言いたいです。
多かれ少なかれ、皆、そんな感じて生きているのだと思うのです。

時折、顔を出してくる心の傷・トラウマさえも、
自分の一部として受け止め、愛しいと思える日が必ず来るのです。

そして、あなたが乗り越えてきて苦しみは、
あなたの糧となり、あなたの優しさと強さの源となるのです。

あなたが乗り越えて来た過去の経験を、
誰かに話すことで、誰かの生きるヒントになるかもしれないし、
誰かの生きる希望となることもあるでしょう。

「若いうちの苦労は買ってでもせよ」と言いますね。
個人的に思うことは、何一つ無駄なことなど無かったということです。

もちろん、何の苦労もなく穏やかに生きてこられれば、
どんなに良かったかと思うこともあります。
でも、過去に色々な経験をしてきたからこそ、
その分、乗り越え方をたくさん学んできました。

特に、性的虐待や性暴力などの被害者は、
心に一生消えない傷を背負い、
その問題が完全にクリアになることはないでしょう。

でも、その経験を背負いつつ、
今を生きている人達は、とても強く素晴らしい人達です。

誰が認めてくれなくても、自分だけは、
その素晴らしさを、全力で認め、褒めてあげましょうね。

あなたも「流浪の月」の文と更紗のように、
傷付いた心を分かち合い、共に支え合えるような、
素晴らしい仲間に巡り会えますように。


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