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ドストエフスキー「貧しき人々」(1864)/不相応な恋心に寛容である生きやすさの話

とあるラグジュアリーブランドのファンで、長持ちする小物やバッグは、なるべくそのブランドで買うことにしている。
そのブランドの店舗に行く時はいつも私なりの最大限キチッとした身なりをして、足を踏み入れる。ところが先日は子を保育園に送った後にカフェで仕事をすることにして、その帰り道に欲しいものの在庫があるかみようと思い立った。家を出る際は子と一緒だったし、そのブランドの高価なバッグを持つのは気が引けた。だから別ブランドの気軽に持てるバッグで店舗に足を踏み入れたものの、他のお客さん達の完璧なコーディネートをみて少し気後れ。こう冷静に思い返して文字にすると、たかが買い物なのに、と苦笑いしかないのだけれど。

ドストエフスキーのデビュー作「貧しき人々」は、そんなラグジュアリーな世界とは真逆の、貧しい初老の男と、同じく貧しい若い女性の話。往復書簡形式で話が進んでいく。
宮本輝の「錦繍」という、同じく往復書簡の話がある。宮本輝は10代の頃にこの「貧しき人々」を読んで登場人物達の神聖な恋心にいたく感激し、それがのちに「錦繍」を書くきっかけになったという。

私はいったい誰を、愛する人より呼ぶことができるでしょう。そうした愛の籠った名で誰を読んだらいいのでしょう。(中略)私は死にますよ、ワーリニカ、きっと死にます。私の心臓はこのような不幸には堪えきれません。私はあなたを、神の光のように愛していました。生みの娘のように愛していました。あなたのすべてを愛していました。そして私は、ただあなたのためだけに生きてきたのです!

この「貧しき人々」という小説の深い感動は、それから二十年後、私に「錦繍」という書簡体の小説を書かせることになる。

宮本輝「本をつんだ小舟」

私は「錦繍」で描かれる、元夫婦の二度と生活は共にしないものの、それでも相手を思いあう気持ちにとても心打たれ、そんなストーリーをどこかで期待し「貧しき人々」を手に取ったのだけれど、宮本輝のような「深い感動」は一切せず、それどころか老いた男性の若い女性への執着が何とも嫌だ、そう感じた。
この初老の男は部屋の家賃も払えないほどその女性に貢いでしまい、挙げ句の果てには逆にその女性からお金を借りる顛末となる。
援助はきっぱり断りたいだろうに、女性は貧しさが故に甘んじて受け入れざるをえないようにみえて、そのことがとても哀しかった。

一方で、初老の男はそもそも若い女性に好意を寄せるべきでないし、不相応な援助が悪か、というとそれも私には違うように思った。好意を持った女性に援助をすることは本来自由で、女性側も、文中からも困惑しているとはいえ、感謝している様子もうかがえた。
初老の貧しい男性の度をこえた援助をよく思えない反面、それを抑圧する正当性なんて誰にもない、とも思う。男性のとった行動に嫌悪を感じながら、ただそれを男性は躊躇する必要はないのだ、そんな相反した気持ちを持ったせいか、1月に読んだ10数冊の本の中で、今はいちばん印象に残っている。

冒頭の話に戻ると、たとえば私の収入で、そのブランドに執着することは不相応ということにならないか。子と一緒の時に使うのを躊躇するような、そんなバッグを持つことは。ただそれについては個人の勝手、そう私は思っていて、どこかの誰かから不相応と思われたところで、自分が持ちたいと思う以上、誰にも止める権利なんてない。

不相応な恋心と不相応なバッグ。それを不愉快にしか思えないならそれは生きづらさで。逆にそれらを許容できるなら、それは生きやすさなのかもしれない。

この本は1864年に書かれているものの、たとえば2022年の今に置き換えても、実はちっとも不自然じゃない話。この普遍性こそが、今の今まで、優に150年を超えて読まれるだけのテーマがあるんだろう。



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