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僕が修行に行ってきた話【Episode 5:さらば、効率主義!】

前々回のエピソード3では、修行の反復性についてお話ししました。今回は、それに関連して効率主義について考えてみたいと思います。(まだの方はぜひエピソード3もご覧ください。)

前々回のnoteで先送りしていたのが修行に関する以下の性質。

②意味のわからないこと
詳細は次々回あたりのnoteに譲ります。何のためにやっているか分からないままやることは「非効率」であり、やはり「現代的」な感覚からすれば避けるべきことであろう。

修行は「意味のわからなさ」を含んでいるという話だった。これは効率主義には反しています。それでは、以下、このことについての説明からはじめましょう。

効率主義とは

効率主義とは何なのか?辞書で引いてみる。

物事を進めるに当って作業効率の向上させることに価値を置く立場。短い時間、少ない予算などを目指すあり方。(https://www.weblio.jp/content/効率主義

効率とはインプットに対して得られるアウトプットの比(アウトプット/インプット)であるから、効率主義はアウトプット/インプット比を最大化することにこそ価値があるという立場だと言い換えることができることには異論はないだろう。なるべく短時間で最大の成果をあげる、非の打ち所などない考え方である。

効率主義の隠れた前提

光あるところに影あり。美しい理念には疑ってかかった方が良い。効率主義だって例に漏れない。

効率主義はアウトプット/インプット比の最大化こそが価値であると前述した。効率的な方策を実行するためには必ず計画をしなければならない。しかし、そこでは当然ながら効率を計算できない選択肢は検討のテーブルから除外される。事前の計算可能性が問題となるのである。効率を求める立場からすれば「結果的に効率的であった」は許されない。効率主義によって実際に採りうるのは「最も効率的な選択肢」ではない。「(事前にある程度結果が予測できるもののうち、)最も効率的な選択肢」という括弧書きが前提として付くのである。

修行の計算不可能性

前々回、紹介した映画「ベスト・キッド」を思い出して欲しい。カンフーを体得してイジメっ子たちを見返したい主人公の少年は、ジャッキー・チェン扮するカンフーの達人に言われるがままにジャケットを掛けたり脱いだりする動作を反復する。少年はその修行がもたらす結果を予測できなかった。けれども、結果的にカンフーの極意を悟って大きな成果をあげることができたのである。

悟りは知り得なかった真理に至るというものである。したがって、修行者は悟りの境地が解らないまま修行に励んでいるのである。更にいえば、全員が悟りの境地に至る訳ではないし、いつまで修行を続ければ悟れるかも判らないのである。つまり、アウトプットを得られるかどうかもその大きさも解らないまま、どこまでインプットすれば良いか判らないまま、インプットを続けるのである。そこには計算可能性などない。修行は効率主義とは対極的なアプローチなのである。

修行アプローチの非合理性

修行とは、できない(わからない)ことができる(わかる)ようになる為のアプローチ方法である。それは計算が不可能であるだけでなく非合理的でさえある。

能力と行動についてマトリクスを作って考えてみよう。

僕が修行に行ってきた話Epi5.001

誰しも「できること」と「できないこと」がある。基本的には能力に沿って行動を選択する。

「できること」は「やる」「やらない」のいずれを選ぶこともできる。行動の内容にもよるが、その行動を望むならば「やる」が合理的選択となる。一方、「できないこと」についてはやっても仕方ないので「やらない」が合理的選択となる。

そして、それぞれ「できることをやり続ける」「できないからやらないままにする」という選択は安定的な解でもある。

僕が修行に行ってきた話Epi5.002

「できるのにやらない」という選択は本人の意思によっては合理的な選択であると言える。能力が備わっていたとしても行動を望まないなら「やらない」ということも理に適っている。しかし、ずっと「やらない」うちに能力が失われてしまうことも少なくない。「できるのにやらない」でいたはずが、いつの間にか「できないからやらない」になるというパターンである。したがって、「できるのにやらない」という選択肢は時に合理的になりうる非安定解であると言えよう。

最後に残った「できないのにやる」はどこまでも非合理的選択であるように見える。できないと分かり切っていることをやる理由を見出すのは難しい。確かに、一回きりの行動で考えればその通りであるが、繰り返しゲームであれば「できないのにやる」理由があるかも知れない。

非合理的ジャンプ

「できるからやる」「できないからやらない」という選択は合理的であり、コンフォータブルでもある。あえて居心地の悪さを感じるような行動を選ぶ必要はない。しかし、この状況が続くとしたらどうか。「できる」人はいいが「できない」人の中には別の行動を起こす人が出てくるだろう。

何度も行動を選択できるシチュエーションであれば能力獲得の可能性が出てくる。能力はできないことに挑戦することで獲得できる(かも知れない)ものである。「できないからやらな」かった人たちの一部が「できないのにやる」という非合理的な選択を採りはじめるようになる。彼(女)らをチャレンジャーと呼ぶことにしよう。チャレンジャーのうちには挫折して「できないからやらない」という選択肢に戻る者もあるだろう。けれども、「できる」に達する者は必ずこの非合理の谷を果敢に飛び越えようとした者なのである。

僕が修行に行ってきた話Epi5.003

効率主義再論

上述の話は「できる」人の間にも当てはまる。「できる」人の中でも「できる」人と「できない」人に分かれて同様のことが起こりうるのである。チャレンジャーたちは非合理的な選択肢もテーブルに載せて検討する一方で、効率主義者は合理的な選択肢から行動を選び取る。仮に最も強力なカードが非合理的跳躍を経ないと得られないとするならばどうだろうか。すべてのチャレンジャーのが成功する訳ではないが、誰か一人でもそのカードを得たとしたら効率主義者に勝機はない。効率主義は、ベターな方法は提供するけれどもベストであるとは限らないのである。特に勝者総取り方式のようなゲームになればなるほど、効率主義的な価値観は相対化されるべきなのである。

おわりに

効率主義は現代社会ではスタンダードな価値観として受け入れられている。しかしながら、本noteでは非効率な修行的アプローチに再度スポットを当てた。合理的な選択肢は一定の成果を出すことができるだろう。しかし、人工知能が普及してゲームのルールが変わったときに、効率主義的な方法では淘汰されてしまう。計算可能な問題であればコンピュータの方が適切に処理できるからである。私たちは「非合理性」や「よく解らないもの」を積極的に受け入れていく局面に来ているのではないだろうか?



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