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教育に焦点を―「自分の考え」をもつ教育とは

2024/3/28(木):教育に焦点を
 今日も覗いて下さってありがとうございます。
 教育を考える木曜日の今日。ベビさんが生まれるまでの最後の「教育に焦点を」の投稿になるのかな?のテーマにしたいのは、私の大好きな安野光雅さんの文章から教育を考えていきたいと思います。

人の意見にまどわさせないようにするためには、どんなことにも、心が動かされない頑丈な地点に立って、つまり人がどうあろうと、自分はあわてない、という堂々とした考えかたが必要になります。 
 テレビでこういっていた、新聞にこう書いてあった、などと、自分の意見はなく、ただただ人のいうことを本気にするだけというのは良くないと思います。
 「自分で考える」ことは、前向きの姿勢の第一歩です。自分でやろうという気持ちが大事だと、わたしは思っています。
(中略)
 自分の考えで責任をもってものごとに取りくめば、たとえ失敗したり、間違ったりしたとしても、改めることができます。ところが、最近は、(中略)自分で考えればいいのに、と思うことまで人任せで、自分で選ぶ力がなくなっているような気がします。
 自分で考え、判断することの中から、これはほんとう、これは嘘、とものごとを見極めていけるようになりたいと思うのです。「学問」とは、何がほんとうか、何が嘘かを判断していく、そのためにあるのだともいえます。
 「自分の考え」がなくなってきている、ということは困ったことで、「自分の考え」がないと、無責任になってしまいます。人の意見に振りまわされたり、まどわされたりして過ごすようでは、おもしろくない生きかたになってしまいます。

「かんがえる子ども」:安野光雅 P87~

 上記の引用、どんな風に読まれましたか?
 正直、子どもに限ったことではなく、大人にも「自分の意見をもつ」ということは非常に難しいのではないでしょうか?
 私自身の自戒も込めてここに書いていますが、「自分の意見のつもりが、安易な誰かのコピーをしているだけ。深掘って考えたり問答をしてみると自分の意見の後ろ盾が何もない…そんなことはないでしょうか?
 いろんな情報に溢れ、しかも自分の意向に即した情報が放っておいても入ってくるのが普通になってしまった現在の社会の中で、自分が思っているものが本当に自分自身で考えた結果のオリジナルなものなのか否か…ということを判断することは、大人であっても困難なことではないかと思います。
 
 では、それが子どもであったら?
 大人が気を付けて援助指導、教育をしていかないと相当に難しいことなのではないでしょうか?
 しかも子どもとの生活の中で、大人のノンバーバル(言葉を介さない)な意向が伝わってしまった結果、子どもの行動や選択を方向付けてしまう危険性もはらんでいます。

 親子関係、教師と教え子の関係の中で子どもたちが没頭して考える、自分の考えをもつことを保証できるような関係づくりと、子ども自身が大人に頼らずに自分で考える…という面白さに気付かせること、そして「自分のことは自分で考え、自分で決めたことは自分で責任をもつ」というある種の快楽的な責任感を持たせることは、子どもにとって大きな財産になり、大きな自信と興味をもたらしてくれるのではないでしょうか。
 そしてそれは、子どもにとって、いわゆる「学校のお勉強」だけではなく人生を彩る力になってくれるだろうと思います。

 まずは大人自身が自分で考えてみる癖をつけ、その面白さを味わって、子どもにも保証してやれる存在になってみませんか?
 私はそんな大人になりたい!そう思っています。

今日はここまで!
最後まで読んでくださってありがとうございます。
ではまた!

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