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教育に焦点を―自主性という口実

2024/1/25(木):教育に焦点を


はじめに

 今日も覗いて下さってありがとうございます。
 今日は木曜日、教育について考えていきましょう!
 今日取り上げるのは河合隼雄さんの「子どもと学校」です。
 河合は学校教育だけではなく、家庭での子育てについても語っています。

 子育ての責任と自由、誰かに任せるということ…今一度考えてもらえるきっかけになれば嬉しく、また私自身これから始まろうとしている子育てへの自戒として考察していこうと思います。


自主性という名の放任

 河合は家庭教育のついついやってしまいがちな親の「言い訳」について鋭く考察し、文章化しています。
 これは現場の教師たちも良く口にし、教育の現場内でも言われてきている、至極当然のことではありますが、一度考えて子育ての実際を考えてみたいと思います。

放任の害
 
子どもが自ら「育つ」ことを強調するあまり、まったく放任しておけばよいと考えるのも誤りである。このことは、特に家庭教育を考えるときに大切である。子どもが自然に育つことを期待して、自由放任にしている、という場合、多くの親は親としての責任を回避するための弁解として言っていることが多く、子どもたちは、それをすぐに見抜いてしまう。こんなときに、子どもは非行を重ねたり、親に無理難題と思われるような要求をつきつけてきたりする。(中略)
 このようなときでも、親は「子どもの自由」を尊重しているかのようなふりをして、責任回避を続けるので、破局的なことになってしまう。子どもが自然に育つと言っても、その傍にそれをちゃんと見守っている大人が必要なのである。子どもが育つのを本当に「見守る」ということは、何やかやと「教える」(結局は干渉していることなのだが)よりも、よほどエネルギーのいるものなのである。

「子どもと学校」:河合隼雄 P51~

 子どもに教えることは簡単で「ちゃんとしている」感もあり、親が自己満足できる事柄でもあると思える。
 対して「見守る」ということを本当の意味でしようとすると、何ともやきもきする時間と忍耐とが必要な事柄である。
 見守るというのは、「放置」と違うことは当然ながら、「見る」とも大きく違うものである。子どもの発想や興味目線、その興味の成長の先を注意深く見据えていくことが必要であり、それには子どもに対する親の継続的な興味が不可欠である。この興味というのは「放任」とは真逆のものである。


教育・保育の現場から

 私の仕事の経験として、保育の専門学校、通信制高校の講師、保育士、幼稚園教諭がある。
 これらの経験から、子どもたちの育ちに苦戦している保護者の発言は一様だった。自分の思うように育たなかった子どもの姿を勝手に憂いて、その責任を子どものせいにする…というものである。子どものことを「子ども自身のことだから…」と突き放して放任しておきながら、自分の親として向き合わなかったことを反省もせずに、思うようにいかないことはまるで自分が被害に遭ったかのように訴える…情けない話であるし、いかに親が声高に被害を主張しようが、辛い寂しい思いをするのは育てられた子どもである。
 「子どもの人生を親のものとしない」「子どもの人生や選択を尊重する」というのと、子どもに興味を持たないのは全くの別物である。
 安易な「子どもの責任」という言葉に胡坐をかかずに家庭教育をしていきたいものである。

 では次に、教育というものについて河合の教えに触れ、考察を重ねたい。

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