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「当たり前」は本当に当たり前なのか〜世の中を批判的に見ると…

タイトルは私が最近特に気をつけている事だ。

私たちは過去の人々の努力の結晶の上で生活をしている。

もちろんそのほとんどが素晴らしいもので、それなしに今日の我々はないと言えるだろう。

だがそういった努力をもとに作られた慣習は今日でも機能しているのだろうか。


例えば学校に行く理由を考えてみてほしい。

中学校までは義務教育であるが、高校からは自由である。

ここで高校や大学に行かないという選択肢を考えた人がどれだけいるだろうか。

もちろん自分の意志で行く人もいるが、「家族に言われたから」、「周りがそうしているから」、「それが普通・当たり前だから」という理由で行く人もかなりの数いる。


高校・大学進学は一種の「慣習的選択」という風にカテゴライズできるのではないだろうか。


確かにかつては学校(特に高等教育機関)に行かなければ豊かな生活を送れる可能性が低い傾向にあった。

だから熾烈な受験戦争を切り抜けなるべく高い教育水準にある大学へ進学するべく高校に進むのが当たり前の世の中だったのだろう。


この「システム」は現代でも変わっていない。


ただ豊かな生活を送るという観点からみてみるとどうだろうか。

数十年前と比べて大学や高校に行かずとも豊かな人生を送っている人の割合はかなり増えた。

ここで誤解しないでいただきたいのは高校や大学へ進むのは無意味だということではない。

学びたい気持ちは何歳になっても忘れてはいけないことであるし、意思をもって高校や大学へ進むことは称賛されるべきことである。

ここで私が言いたいのは高校・大学進学が豊かな生活を送るための「絶対条件」ではなくなりつつあるということだ。

(個人的には専門学校のような何か一つを極めるというのがこれから主流になってもおかしくないと考えている。この話はまた別のタイミングでしっかり言語化しようと思う。)


世界は刻々と変わっている。


我々が感知するより遥かに早く変わっているのだ。
10年前、スマートフォンがここまで流行ることを予見していた人はどれだけいただろうか。

だが変わるのは何もテクノロジーだけではない。

我々の生き方、考え方、慣習も本来は変わるはずである。

テクノロジーは進化し続けているのに考え方は前時代的なままというのもおかしな話だと思う。

そういった不変とみなされていたものも今後は時代に合わせて意識的にアップデートしていかなければならないのではないだろうか。



思考のアップデートをするために私は世の中のあたりまえを一度否定的立場から考えてみることが大事なのではないかと考える。

公に明らかにする必要はない。

ただ自分の頭の中で一度否定してみることで新しいものが見えてくるのではないだろうか。

次のnoteではナポレオンがもし現代にいたらという話をしようと思う。

ではまた。

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