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コンテンポラリーダンスは現代アートなのか?

本日9月14日観に行ってきました。
以前にコンテンポラリーダンスに触れたことはありますが、ここまでハッキリとコンテンポラリーと銘打った演目を観たのははじめてでした。
プレトークでコンテンポラリーダンスは難解といった印象があるのか敬遠されがち、と言ったニュアンスの話をされていました。なるほど素人としてはやはりバレエと言えば華やかな古典を想像してしまいます。幸運というか、今まで触れたコンテンポラリーダンスが比較的分かりやすくて楽しい舞台だったこともあって、敬遠されがちというのが意外で、少し残念な気持ちになりました。私の中ではコンテンポラリーダンス=楽しいもの、なのです。何より普段鍛え抜かれた方たち、バレエを踊るために特化した身体を使って踊る訳ですからクオリティは約束されています。もっと気軽に観る機会があればいいのに、と常日頃から思っていたのもありなんだか悔しい気持ちになりました。
そして創作リサイタル36の幕が上がり、「ワルプルギスの夜」から「マラサングレ」に続く、「カクタイ」はこれこそコンテンポラリーダンス!最高に楽しかった!
まず、ダンサー達は男女の見分けがつかないような衣装を身にまとっています。これはジェンダーを排し、ダンスに男も女もなくただ身体を使うものだ。という宣言のようです。正方形の台を敷きつめた舞台上に、しずしずと入ってくるダンサーのラインは美しくも力強く何が起こるのだろうと期待させます。直ぐにダンサー達は息を音を立てて吐き、呼吸を大事にするバレエに抗うような仕草をします。次には床や台を叩き「今!」「今!」と叫びだし、何かに訴えかけるのです。これは声無きバレエ身体のみで表現するクラッシックバレエではやらない表現で型破りです。ペアを組んで表現するのはそれぞれ日常の様子であり、華やかな古典の世界とは違う日常のリアルな世界観を表しています。また台を使った動きはまるで完璧な身体の仁王像が並んで四股でも踏んでいるかのような力強さ、このように身体が躍動するさまはとても美しい。
極め付きは台の上の全力疾走!これは同じ場所を全力で走るマイムが出来なければ成立しない。迫力満点でした。
緩急を演出するのか1人のダンサーの踊りをもう1人が審査するように「ヨシ!」「ヨシ!」と言い、最後だけ「ダメ!」のダメ出しで笑いが起きました。
コメディ要素も十分に表現できるのです。
恭しくダンサーたちの運んでくるサボテンの鉢植え。サボテンの比喩はなんなのかはわかりませんが、棘のある植物はある意味非日常で、サボテンの鉢植えは日常にあるとも言え非日常と日常を行き来できる比喩として選ばれたのかもしれませんね。
最後のダンサーたちの曖昧な笑顔は不気味でさえあり何か不穏を表現していそうです。

とても楽しく迫力あるコンテンポラリーダンスの一夜でした。
パンフレットによると作者の方は行き詰まって批判にさらされ美術批評について動揺した時期に制作されたとあります。
なるほど、ダメだしのシーンはそれで生まれたのでしょう。
誰もが好きなように解釈していい。
それはよく聞く言葉ではありますが多くの人にとって好きに解釈するのはハードルが高く、それが現代アートを遠いものにしている構図と似ているように思います。
誤解があるのですが、現代アートはハチャメチャなのではなくちゃんと文脈あり理由があるのです。だからこそ現代のカウンターになり得る。コンテンポラリーダンスにも古典からの脱却の文脈があるはずなのです。
これの補助線を引くのが批評で、残念なことに批評家自体が批評と批判とをごっちゃにしてしまっている。本来作者と評論は両輪で高めあって行かなくてはならないものなのです。
現代アートやコンテンポラリーを忌避するのは批評家の力不足と誤解が原因だと思います。悲しいことです。
批判と批評は別物です。
そうした認識が広まり、食わず嫌いが無くなりもっと理解が深まりコンテンポラリーが広まるといいなと思います。
まァ「カクタイ」が生まれたのは美術批評に反発したからなのですが。
それはそれで幸運な出自なのかもしれませんね。
古典だってその時はコンテンポラリーダンスです。
どうか、「カクタイ」のようなコンテンポラリーダンスをもっと楽しめる環境になりますように。

15日、もう一度公演があります。当日券もあるようです。お近くの方はぜひ。

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