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料理人に纏わるサスペンス、そして食で育てる事

「美食探偵」ドラマ版を観ていた。
食に纏わる事件を食で解決するという触れ込みだったが大して探偵要素は無い。
この世界観では警察は機能してないし主人公の行動は説明不足だしツッコミ所はあるけれど、私は1話を観て泣いてしまった。
どこに?と言われそうだけれど。
自覚もないままに抑え込んでいたものをドラマをみていて不意に突きつけられた。
この物語では食事をつくる人を蔑ろにしたことが『罪』だったからだ。
食べることは長く長く続く営みだ、という主人公。
食事は必ずつくる人がいる。つくる人を蔑ろにする
『罪』
そうか、私は蔑ろにされていたのか…
過去、酷い扱いを受けているのに傷ついていない体で平気なフリをしていた。別に自覚がなかった訳では無いけど…
「私って酷い目にあっていたんだなぁ」
と気がついてしまった。
相手を思って作ったものを粗末にされることはその人の心を潰すほどの破壊力があることを他ならぬ自分に対して無自覚だった。
泣いてもいいのだ、とその時気がついて泣いてしまった。
心を込めた食事を蔑ろにする人は「罪」を負っている。
罪人は「食」に関する感性を磨かないまま成長してしまった哀しい存在なのかもしれない。

今は「蔑ろ」ではないけれど。

忙しい母にかわって食事を作ることが多かった。味噌汁を作っておく、ご飯を炊いておくなどは幼い頃から。高校生の時は工夫していろいろつくっていて評判はよかった。自分なりにあれこれ足したり引いたり失敗もしてそれでも料理は楽しかった。
飽きるほどつくる中で料理はずっと私の楽しみであり苦行であり義務だった。
少し前、娘が私の料理を食べたいと呟いていた。
嬉しいより悲しくなった。飛んでいって作ってあげたくて辛くなる。
息子は出された食事は作ってくれた人への礼儀だといって必ず残さず食べる。
ちょっと無理し過ぎでは、と思う。お腹いっぱいなら残したっていいのだ。
二人とも私の作る食事を愛してくれた。

食育とは親の態度であろうか。

子ども達にご飯を作るのは最上の楽しみではあるけれど常には難しい。体調の悪い時はお弁当だっていいしUberEATSだろうとインスタントだろうと「美味しいね」と言い合って食べることが出来ればそれでいいと思っている。
食べることにうるさくなりたくなかった。
私の母親はとてもこだわりのある人だった。
素材にこだわり、添加物はダメ、お菓子はダメ、天然の物サイコー!
ジャンクなものは一切禁止だったしジュースは天然のもの。すべてが嫌だった訳じゃない感謝もしている。
味が分かるのはその努力の賜物だし良かったとは思う。それでも禁止はキツイ。付き合いって子供にだってあるものだから。
ジャンクなものを食べるのは秘密の楽しみで背徳感と共に食すのだ。

いわゆるママ友で添加物お菓子ジュース禁止の人がいた。彼女の娘はママの目の届かないところで子供会やお友達の家で出された禁止されているお菓子を貪り食べていて他の子の分にまで手が伸びていたけれど誰もその事を本人には伝えられなかった。
それも悲劇ではないか。

自分も禁止は辛かったのでコーラやジャンクなお菓子はちょっとだけ我慢してもらった。やはり育った環境というかジャンクなものを無尽蔵に与えることには抵抗があった。私の目を盗んで父親やら祖母たちから貰っていたのには片目を瞑った。
おやつを作るのは楽しかったが今から思うと若かったので少し手作りにこだわりすぎていたかもしれない。
結局息子はコーラを反動で飲んでいるし禁止は逆効果。まァ失敗してるんですけど(笑)
なぜいけないのか説明し続ける方が効果があると今では思う。

おやつに限らず試行錯誤が好きで自分の求める形になるまでいろいろ試みる。
先日娘の「あの頃のハンバーグにはゴボウが入っててイマイチだった」とまさかの告白をきいてあの頃はゴボウにハマっていたからなぁ。と思い返す。
マイブームに子どもたちも付き合ってくれていた。食への探究心がときにはウザかったかもしれないが多様な食事が食卓に並んでいたのだから結果オーライだ。

そんな工夫好きな私も体調を崩した2年間は炒め物ばかりの時期があった。この頃の料理の記憶が無い。炒めて出すのが精一杯だった。
因果だが作ることは止められないのだ。
どれだけ大変でもなにか1品は機械的に作っていた。
これが作れない程であったなら私はもっと悪くなり生活出来なかっただろうと思う。

美味しいものを食べたい。
結果が自分が作った方が美味しい、で。
今日は疲れた、何もしないぞ!って決めても何か作ってしまう。
自分でもめんどくさいな、とは思うけど。
それでもこの部分は主に自分のためにであって子どもや誰かのため、でないことは良かったかなと思う。押し付けがましいのは伝わるし誰かのためで潰れてしまっては元も子もない。

すべての食事はつくる人が主体であるべきだ。
何か当たり前のことのようだけれど。
もちろん家族を無視して好きな物をつくってたべろ、楽しめばいい、という雑な話ではない。

疲れて作れない時の外食もUberEATSもお弁当も出来合いもそして元気で作れる時も聞くはずだ。子どもにパートナーに親に「何食べたい?」って。
子どもは尊重されてることがことが伝わればいい、と思う。つくれるならリクエストは嬉しいし張り切れる。面倒な料理や準備が複雑なら次に食べたいものを聞いてつくればいい。
「あなたの事をおもっています」
が最大の味付けだ。
人と人として最低限これさえあればきっと信頼関係は築ける。
気負わなくてもつくる人が自分のスタンスで食と向き合えばいい。そうしたら子どもたちはそのルールを元に自分の食の世界を広げていく。

幸いなことに子どもたちは食事を粗末にすることなくつくる人のありがたさをわかっている人になってくれた。一人暮らしでそれぞれ工夫して食事を採っているしつくることにも積極的だ。感性を磨く手助けは出来たと信じたい。
食育は親の姿勢だろうと思う。

全ての料理をつくる人に、無理をしない範囲で楽しく作って欲しい。
つくる人は生命をつくる人。
もっと大事にされていい。
食事がものすごく大事な営みで、つくる人はとても敬われてよいのだ。という価値観が示されるのは幸福なことだ。つくる人が粗末に扱われる長く不遇な時はもうおしまい。

良い時代になった。

蔑ろにされた経験を経て子どもたちも手元を離れ家人の為に必死に作ることもなくなり、今は心から自分が食べたいものを作って食べている。
季節のものをゆっくりとたまには手を抜いて。

自分を1番に。

このスタンスが食育に繋がるかもしれないと食育の時期を終えた料理人としてしみじみ思う。

くだんの「美食探偵」は生きることは食べること。と結んでいた。食事の様な毎日の営みに齟齬があると、ときにサスペンスに発展するような心をの闇を生む。身を持って経験している私にはよい最終回だった。
演者が一流ばかりで脚本の説明不足を補ってあまりある行間を作って謎の説得力で伝えてくれた(笑)未曾有の危機の中、集中力を切らさずに完走。お話が破綻しているのに人を引きつけられたのは圧倒的な身体性というものか。
演者目当てでミーハーに見始めたドラマで大事なことに気付かされる事もあるのだ。これだから虚構は侮れない。

料理人を粗末にするとロクなことはないよ、本当に。

そう考えるとかなり初期から食べることにこだわって脚本に取り入れていた井上敏樹は慧眼だったのだ。

全ての料理人に幸あれ。

敬称略。
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ちょっと寂しいみんなに😢