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①「時分の花」で終わるなかれ・・・『風姿花伝』世阿弥より

こんばんは。乳がん闘病中のまいです。


人が書いたもので心に残った言葉を覚えておきたい。

それについて考えたことを言語化したい。



ということをやっておこうと思っとります。

今日は、「能」を大成した世阿弥が後継者のために執筆した有名な『風姿花伝』より。

『風姿花伝』には、子どもの頃から老いるまで、実践者が能にどうやって向き合っていけばよいか、教師はどのような心持ちで彼らに向き合えばよいのかが書かれている。

今日、私が気になった一説は、十二三の頃について書かれた部分。

<原文>

この年の頃よりは、はや、やうやう声も調子にかかり、能も心付く頃なれば、次第次第に物数をも教ふべし。

まづ、童形なれば、なにとしたるも幽玄なり。声も立つ頃なり。二つの便りあれば、悪き事は隠れ、よき事はいよいよ花めけり。

<口語訳>

この年頃になって、ようやく声も能の音に合わせられるようになり、演技も自分の思いの中でできるようになるので、次第に演目も増やしていけばよい。何より稚児姿のため、それだけでも愛らしい。声も立つ。この二つがあれば、欠点も見えず、長所はさらに華やいで見える。


解説に、こうあります。

「『幽玄』とは、まず可愛いということである。しかも声も出るようになり、いよいよ華やいで見える。このあとに世阿弥は言葉を継いでいる。つまり、こうした花はけっして本当の花ではない。その時だけの『時分の花』である。そう言って、さらなる精進を求めているのだ。子役だけで終わってしまう俳優がいる。それでは困るのが、世阿弥の立場である。」

(「えんぴつで風姿花伝」書:大迫閑歩 監修:土屋惠一朗 ポプラ社)


これって、現代のダンスでも同じことが言える!って思いました。

ヒップホップとか、小学生くらいでめちゃくちゃ上手な子がおるんね。

ある点では、大人のプロフェッショナルなダンサーより、子どものアマチュアトップの方が上手いのではないかと言えるくらい。

でも身体が発達して手足が伸びてくると、それまでみたいな動きが出来んくなってきたりする。身体が固くなってきたりとかね。

それは、「その時分の花」に過ぎんからなんやなぁ。


フィギュアスケーターとかも、10代半ばから後半に体型が変わる時、それまでと身体のバランスが違って上手くジャンプが跳べんくなる時期があるらしい。バレリーナとかにも言えるやろね。


「本当の花」になるためには、さらなる研鑽を積んで、自分自身の身体で常に体現していくことを追求する姿勢が求められるんやろね。

「時分の花」に胡坐をかいとったら、そこまで。


それでも、あまりに厳しく教えすぎると生徒が嫌になってしまう。

生徒のやる気を引き出しつつ、さらなる高みを目指すような動機付けを行うって、すごく難しいから、世阿弥もいろいろ思案したんやろな。

いつの時代も、先生が悩むんは一緒ってことですか。


そう考えると、過去のものから今の私たちが学べることは大いにある。

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