『延長戦』(長谷川麟)
第10回現代短歌社賞を受賞された長谷川麟さんの『延長戦』を読みました。
この賞には300首必要ということをはじめて知ったときは卒倒しそうになった。知ってしまってからはもうそういうものとして受け入れているけれど、ほかの新人賞の30首や50首のイメージが強かっただけに仰天。連作じゃなくて歌集、だもんなあ……個人的には50首編むだけでも必死なので、応募する方全員、尊敬のまなざして見つめてしまう。
『延長戦』を読み終えて抱いた第一印象は、歌集の内容とタイトルのマッチ度がとにかく完璧だ……!ということです。
延長戦。表紙にもあるように「僕らの僕らによる僕らのための延長戦の記録」という言葉のとおりの歌集だった。ずらっと揃った300首は作者にとっても読み手にとっても、あらゆるかたちでの延長戦であって、もうこれ以上のタイトルはないなと心の底から思った。
かっこいいことをかっこよく言い収めた作品群、というよりは、等身大のできごとをそのまま飾らずに、ただし歌としての旨味を保ったまま表現されている作品がぎゅっと身を寄せ合っている本、のように感じた。
ああわかるなあ、と共感するシーンがものすごく多くて、好きな歌がいくつもある。
あのときのあの感覚を、小気味よいリズムで言い当てられてゆき、ページをどんどんめくりたくなる。上の3首はすべて比喩が使われているが、どれも心地良い納得感とともに脳のなかを流れてゆく。
特にドトールの歌は急激ななつかしさが迫ってきて、高校生の頃にタイムスリップしそうだった。教室をふたりで使う……テスト期間かなにかで学校が早めに終わって、あの夕暮れの橙色のひかりが机の影をつくって、あ~~~!(うるさい)
こんな感じで静かに悶えながら読み進めていくと、かなりのボリュームなのにあっという間に終わってしまった。
また、長谷川麟さんの歌でわたしが魅力的に感じるのは、一首一首が主体の声で再生されるところ。これは思い込みかもしれなくて、それはそれでいいと思っているのだが、作中主体がふっと言葉にした、その紡がれた鮮度のままで、歌が目の前に置かれているような気持ちになる。
引用が止まらなくて、この調子で続けると無断転載になりそうなので危険。もうやめておく。それくらい手元に寄せておきたい歌ばかりなのだ。
それほど仲良くもないけれど参加する懇親会、居酒屋の下駄箱のあの独特の暗さ、気づいちゃったら負けな集中。カーキ―のシャツは持ってないけど、この歌のあっけらかんとした明るさが好き。講演会の最後、プロジェクターに人生の命題っぽい問いがスッ……と映し出されて、うんうんと真面目に考えたのに絶妙にはぐらかされた感。「わかる」の連続。
歌の言外にひろがる背景や意味、読み手それぞれの記憶の種を掘り起こすようなシーンの捉え方、そしてそこに主体のユーモアやちょっぴりお茶目な調子がスパイスとなり、唯一無二の歌集だと思いました。
わたしもあなたも延長戦、がんばりすぎずにがんばろう、と背中を押された気持ちです。ありがとうございました。サインもいただいたので、ずっと大事にします!
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