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12月19日、クリエイティブに優劣はあるか

小学校中学年から浪人時代まで埼玉で、大学時代に東京に出て、東京のFMラジオ局に就職し、東京の出版社に転職し、東京でフリーランスの編集者になり、東京で八燿堂を開始し、2019年に長野に移住した。

人生の約半分を東京で過ごしたが、(サブ)カルチャー好きだったから都会暮らしは楽しかった。人、モノ、情報、お金が集まる都市は、クリエイティブの坩堝だ。あらゆるエネルギーの髄を集めた創作物には、見るものを圧倒するクオリティが備わっている。

と、思っていた。
間違っていた、ということではない。
それは一面に過ぎないのでは、という話だ。

いまから10年くらい前だろうか、当時東京から兵庫に移住し、また東京に居を移したデザイナーとアーティストの夫婦から、地方暮らしについて尋ねたことがある。生活、物価、住みやすさ、などに加えて彼らが悩んでいたのは、「地方のクリエイティブのクオリティ」についてだった。

曰く、地方はクリエイターの競合が少ないので仕事はあると感じる。実力があれば地域で耳目を集めることは東京よりも容易だ。しかし全般的にクオリティが低い。自身のクリエイティブを高める環境であるとは言えない。

そんな内容だったと思う。10年近く前だから、いま聞けば事情が異なる部分もあると思うが、話を聞いた当時の私は地方暮らしに特に関心がなく、東京でカルチャーの最先端を楽しんでいた時期だったから、「そういうものか」と納得した覚えがある。

しかしいま、思うのだ。
人間の創作の優劣は、何が基準になっているのだろうか?
そもそも人間の創作物に優劣は存在するのだろうか?

東京から長野に来て4年と数か月が経った。移住当初は仕事において「地域」を意識することはなく、東京にいる延長で本をつくっていた。その後、新型コロナウイルスで県外への移動が自粛されたこともあるが、単純に長野、あるいは長野県東部=東信という地域や人の面白さに気づき始め、自分の出版活動に反映するようになっていった。

有機の珈琲豆の自家焙煎、休館日の映画館を子どもの居場所にする活動、地域循環型の飲食店、かつての地場産業の再興を試みるブルワリー、次世代に意味のある暮らしを実践するギャラリー、400年続く名家が興した郷土の懐石料理店……。ポッドキャスト「sprout!」で紹介しているのは、まさにそんな、惚れ惚れするほど魅力的な活動をする人たちばかりだ。

確かに、東京に行けば「もっといいものはいくらでもある」のかもしれない。人が多い=ピラミッドの大きさが巨大になるのだから、頂点はそれにつれて高みに達するのは当然だ(下を見ても途方もないが)。頂点に近づくほど、人、モノ、情報、資金、歴史、知性、技術、クリエイティブなどの資源が集中し、エネルギーの結晶のようなものになる。それはそれでいい。

けれど、クリエイティブとはピラミッド型の構造でしかあり得ないなのだろうか? 創作自体が優劣に紐づけて語られるのはなぜなのか? そもそも「いい/悪い」の評価基準はどこから来たのか? むしろ、その基準自体を更新することこそ、クリエイティブが果たせる役割ではないか?

※余談だが、移住後に長野で障害者によるアートの公募展が行われていると知り、概要を見たら「賞」という「評価」が設定されていることに驚いたことがある。健常者にほぼ独占されたアート界が、それ以外の表現の多様性に目を向けるという意義ある試みなのかと思いきや、評価という構造は横滑りしていて、そこからこぼれるものを再生産している。せめて優劣を付けたいなら健常者も障碍者も関係ない公募展にすればいいのではないか?

クリエイティブに優劣は存在するのか。
優劣という見方から離れて創作に触れることはできないのか。

これは、「ジャッジメントを手放す」ということだ。
「正しさを超える」と言い換えてもいい。

正しさを超える。
正しさは善を生み、悪を生む。
正しさは味方を生み、敵を生む。
正しさは優を生み、劣を生む。
正しさは勝者を生み、敗者を生む。
正しさは強者を生み、弱者を生む。
正しさにしがみつくと、それ以外が見えなくなる。
それ以外を否定したくなって、争いが生まれる。
だから正しさは堅い、重い、行き詰る。

善悪や優劣を決めるな、ということではない。優劣に分けたいなら分ければいい。頂点を目指したいなら、それもいい。繰り返すが、頂点のものは確かに「すごい」。けれども、頂点はひとつとも限らない。それぞれがそれぞれのやり方で創作を磨けばいいのではないか。磨きたくなければそれでも構わない。そのうえで、最終的には「それが好きかどうか」に過ぎないのではないか?

私は東信のクリエイティブが、あるいは長野や日本のすべての地方の創作が、東京に劣っているとは思わない。確かに投入されたリソース量の差はあるとは思う。圧倒的な資金力やパワーにはとても敵わない。だけど、たとえ資金力や技術力が少なかったとしても、それ以外のエネルギーは注がれているはずだ。

特に地産地消のような創作にはリソース同士の関係性や文脈の必然性が濃く、アウトプットの密度につながりやすい。さらに圧倒的なのは、やはり自然との近さだ。自然という存在は創作が向かう先を地域や地球や宇宙のように外側に広げることができるから、創作のボキャブラリーとコンテクストをひとつ深めることができる。

さらに言えば、プレイヤーの数が限られるぶん、構造を構成するレイヤーは比較的シンプルで(構造的に問題がないわけではない)、ゆえに風通しの良さがあり、自由とは行かないまでも伸びやかで、なによりそれらがあるおかげで多様性が担保されているから、東京に慣れた目には思わぬ発見や気づきもある。

だから、地方が粗悪だとは思わない。けれども、言うまでもないが、だからと言って、地方のクリエイティブが東京より優れている、ということではない。むしろ地方の創作は、創作における優劣を超えるきっかけのひとつになる、ということだ。優劣という色眼鏡を外すこと。

もっと言えば、地方と東京の関係だけではない。東京のなかにもいろいろな創作がある。プロとアマの差にこだわらなくなっている世の中の温度も感じる。「どちらがいいか」よりも、「それもいい」。そんな軽やかさのほうが、私にとっては楽しいし、新しいし、意味があると感じる。


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