「他者性をもつ他者」
「証明不要な真理」が存在するということは、それをそうとする共同体が存在するということであり、それを共有するということは、言語ゲームを同じくする共同体にその人が所属しているということを意味する。その意味で「真理を愛する」ということは「共同体を愛する」ということと同義。そこには「他者性をもつ他者」は存在しない。
フロイトの精神分析は、対関係においてのみ成り立つもので、それは「他者性をもつ他者」との間に横たわる深淵を「命がけの飛躍」によって超えていくことにより、無意識に迫る作業となる。それは「証明不要な真理」に至るという流れとは全く異なる。当該対関係において、対話を重ねることにより、互いに論駁不可能な地点にまでたどり着くことが目指される。
フロイトは性という概念を自己の理論に導入することにより「他者性をもつ他者」を措定したといえる。それによりフロイトの理論や精神分析の場から「証明不要な真理」という概念が排斥されることになった。
それに対してユングは集合的無意識を措定することで、「私」を「一般」の中に組み込んでしまった。それは言語ゲームを共有する者の範囲を一般化した、つまり最大限に拡張したことになる。そしてそこには「他者性をもつ他者」は存在しない。
コミュニケーションとは、共同体と共同体の間に横たわる深淵を「命がけの飛躍」により超えていく作業である。言語ゲームを同じくする、つまり「他者性をもつ他者」が存在しない共同体内部でのコミュニケーションは、つまるところ独白でしかない。