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02.21

電車の最寄り駅までの帰り道を走って帰った。特に大きな理由は見当たらないけれど、あるとしたら"少しでもはやく家に帰りたい"だろうなと思う。ところどころ歩きたくなったけれど、ノンストップで駆け抜けることができた。時間として4分。自己ベストの5分を1分短縮できた。退社してから最寄り駅に到着するまでの時間を競う競技があれば、おそらく県大会にはいけるんじゃないか。そう思った。そうして改札を抜けるための定期をポケットから取り出し、電車の到着時刻を知らせる電光掲示板を見上げる。

「新快速 ◯◯行き 遅れ約10分」


麻婆豆腐の食べ方

小さい頃から母親に、食卓に麻婆豆腐が並んだときは白ごはんの上にかけてはいけません。と教わった。理由は、麻婆豆腐を白ごはんの上にかけてしまうとごはん茶碗が汚れてしまい、洗う手間が増えるからだ。その教えがしっかりこびりついているからか、今でも麻婆豆腐が食卓に並んだときには、麻婆豆腐をれんげですくってまず一口。そして次に白ごはんを送りこむ。そうしてやると口の中では麻婆豆腐と白ごはんがあわさり、麻婆丼が出来上がる。手間と時間はかかるけれど、こうやっていままで食べてきた。でもやっぱり麻婆豆腐は麻婆丼として食べたい時が人生には一度ならず複数回あるわけで、やっぱり食べたいってなる。だから、ぼくのなかでは麻婆丼が今日は燻っていたし、どうにかして汚さずに食べる方法がないか頭のなかでぐるぐる考えていた。


先代の教えてくれた答え

そんな折、ごはん茶碗を汚さずに、麻婆豆腐を麻婆丼として食べる方法を上司が教えてくれた。それは、麻婆豆腐のお皿に、ごはん茶碗に盛られた白ごはんをダイブさせるという画期的な方法だった。麻婆豆腐をかけるのではなく、白ごはんを逆にかけてやる。そんな恐ろしくも簡単な答えがあったのかと衝撃が走ったと同時に、見える世界が明るくなった。心の霧が晴れたのだろう。と思ったけれど一つの問いですぐさま霧でいっぱいに曇った。その問いというのは"それは果たして麻婆丼と呼べるのか?"だ。ごはんの上に麻婆豆腐がのっているから麻婆丼。親子丼だって、カツ丼だって、ごはんの上にかならず主役が乗っている。そういうことだから、ぼくの中でも"丼"定義は"ごはんのうえに主役がのっているもの"だと考えてきた。先人の教えたる上司が伝えてくれた麻婆豆腐にごはんをかける、そして完成されたものは果たしてなんというのか。それは"麻婆豆腐オンザライス"になるんじゃないか。なんだその変にかっこいい名前は。でもそうとしか言えないよな。そんなことを頭のなかでぐるぐる考えても仕方がないので、真実を知りたい一心で上司に聞いてみた。「それは知らないけど、皿を上にあげて下からみたらそれはもう麻婆丼だよね。それでよくない?」いい。全然。全然それでいい。こころを覆っていた霧が一斉に晴れ、すっきりした。それと同時に、こころの中に麻婆豆腐が鎮座するようになった。書いてる今でもずっと残っている。そこにいる。


いろんな問いに対してもさらっと答えをだせる上司。そんな人にぼくもなりたいけれど、人生経験が足りない。どうやれば少しでも近づけるだろうか。やっぱりぼくの倍以上に生きてきた人、昭和から平成、令和と時代を乗り越えてきた人。そういう人はその人なりの答えをもっている。それもたくさん。ぼく自身も毎日の一日一日をたくさん経験して、その都度自問自答すれば自分なりの解釈をたくさんもつことができるんだろうか。そうすれば、じぶんの中で言葉の積み重ねができて、小さな辞書ができあがるんだろうな。やっぱり、上司との会話の積み重ねは勉強になる。たくさん教えてもらおう。ただ、パエリアがイタリア産と自信たっぷりに間違いを伝えてくれたあの瞬間はどうしても心に引っかかるものがある。この気持ちは、なんだ?

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