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【映画】寿命差《覚悟→拒否→受容》の「婚姻儀礼」見立て/歌の「疑死再生」と無秩序過程:民俗学を視座とした『マクロスΔ絶対LIVE!!!!!!』論【ネタバレ考察】

 上映中の映画『劇場版マクロスΔ 絶対LIVE!!!!!!』について、主人公ハヤテが恋人との寿命差を受容する「婚姻儀礼」見立て歌と魂の「疑死再生」及びその「胎内回帰」過程の無秩序村社会の民俗学的「異常人物」「異人(マレビト)」「客神(マロウドガミ)」などの民俗学的観点を交えた考察です。また、各歌の魅力も最後にまとめました。
 私は全く民俗学の専門ではないので、どれも思いつき程度です。

台詞は記憶を頼りに書いているので正確でなく、おおまかなニュアンスを伝えるものです。正確な台詞わかる方のコメントお待ちしてますm(_ _)m
※つらつら書いてるので、支離滅裂な部分ごめんなさい。

⚠️  公 開 終 了 間 近 !!

簡単な登場人物と設定説明

〈ケイオス〉
 軍事や芸能を扱う民間複合企業。

 主人公 ハヤテ・インメルマン (CV 内田雄馬)
 ケイオスのラグナ支部の「Δ小隊」のパイロット。ワルキューレの護衛が主な任務。
 アラド・メルダース (CV 森川智之)
 Δ小隊の隊長
〈ワルキューレ〉
 フォールド波を歌声に乗せる能力を持つ戦術音楽ユニット。人体のフォールド因子に影響を与え、ヴァール症候群という病を鎮めたり、本作では時空を超えるフォールド波によってワープや戦闘機を増強する。

〈ワルキューレメンバー〉

 フレイア・ヴィオン (CV 鈴木みのり)
 短命なウィンダミア人。15歳。
 美雲・ギンヌメール (CV 小清水亜美  歌 JUNNA)
 古の巫女である星の歌い手の細胞から作られたクローン。3歳。外見は年頃の女性。
 カナメ・バッカニア (CV 安田希世乃)
 リーダー。彼女の歌を慕っていたパイロットを前作で亡くしている。22歳。
 マキナ・中島 (CV 西田望見)
 メカニックにも携わる。18歳。
 レイナ・プラウラー (CV 東山奈央)
 電子作戦にも携わる。15歳。
〈空中騎士団〉
 ウィンダミア王国の精鋭部隊。

 ボーグ・コンファールト(CV KENN)
 空中騎士団のエースパイロット。過去の新統合政府からの独立戦争で家族を亡くす。
〈ヘイムダル〉
 銀河の秩序を管理しようとケイオスなどに干渉する「レディ・M」の排除を目的とした革命組織。

 イアン・クロムウェル (CV 斉藤次郎)
 ヘイムダルの首領。テロを計画。
 シドニー・ハント (CV 櫻井孝宏)
 ヘイムダルに技術提供するイプシロン財団から派遣された者。
 セイレーンシステム
 イプシロン財団が開発したAIシステム。ヘイムダルに提供され、ワルキューレの音楽を学習、5人分のフォールド波を発する「yami_Q_ray」として活動。
〈ストーリー〉
 人類の祖先であるプロトカルチャーは高度な文明を持ち、戦闘によって滅んだ。人類はプロトカルチャーが作った人類種の一つであり、銀河中に他の作られた人類種とプロトカルチャー遺跡が無数に存在する。人類は他の人類種との戦闘を超え、新統合政府を樹立し銀河を統治している。
 病を治す歌声を持つワルキューレとその護衛のΔ小隊は、新統合政府から独立すべく戦争を起こしたウィンダミア王国との停戦ライブの中、人知を超えるプロトカルチャーの文明を陰から規制し時に独占使用するかに見える「レディM」の排除を目論む革命組織「ヘイムダル」のテロ計画に巻き込まれ、反抗を示す。

● 寿命差の《覚悟→拒否→受容》の変遷と「婚姻儀礼」の見立てについて

 主人公ハヤテが恋人フレイアとの「寿命差」を「受容」するまでの過程と「婚姻儀礼」に見立てられた結末を順序だてて考察します。
 この「受容」に至るにあたり、ハヤテはフレイアの「疑死再生(死と再生)」を理解したと私は考えます。
 この「再生」「赤子のセイレーン」と「風の中に生きる歌」が象徴していると考えます。

 また、映画に合わせて作成されたアルバム「Walkure Reborn!」の「Reborn」は「生まれ変わる」という意味です。このことからも、「死と再生」が作品テーマに組み込まれていると私は考えます。

・一度目の覚悟

 本作のヒロインであるフレイア・ヴィオンは平均寿命が30~35年ほどの短命種族(ウィンダミア人)です。
 彼女は作中で我々と同じ平均寿命を持つ地球人の主人公・ハヤテと恋愛をします。

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「好きだ。フレイア」
「林檎の花はね、10日間しか咲かないんよ。ぱぁっと咲いて、すぐに散っちゃう。
それでも、いいんかね? そんな林檎の花でも」
「俺は、どんなフレイアでも好きだ」

 このようなやり取りを経て、2人は恋人のような関係になります。(ただし、直後に敵襲がありフレイアの明確な返答は無し)

 ここで、主人公ハヤテはフレイアの短命を一度覚悟します。しかし、これは具体性の無いイメージとしての覚悟であり、「観念的な覚悟」と考えられます。

→ 一度目の覚悟

・一度目の拒否

 しかし、敵襲があり、結界を維持するために力を使いすぎたフレイアと同種族の神官ヨハンが亡くなり、ハヤテはその死の瞬間を目撃します。

 その際、種族の特徴として肌が白く結晶化し、鱗のように剥がれ、光を放ち舞い散ります。その描写はありますが、遺体は画面に映されません。

 つまり、ハヤテはウィンダミア人の早く儚すぎる「死」を受け入れることが出来なかったのです。

→ 一度目の拒否

・二度目の拒否

 フレイアと同族の神官ヨハンが死の直前、

「激しすぎるルンの輝きは命を縮める」
「よく考えるのです。
なんのために生き、なんのために歌うのか」

 とフレイアに告げます。ルンとは、フォールド波を伝える物質(フォールドクォーツ)を含むウィンダミア人の感覚器官で、感情のたかぶりなどで光輝きます。
 物語中盤、フレイアは、歌うことで感情が高まりすぎるとルンが輝きすぎ、寿命を削ってしまうことが判明します。回復することもできないほど、ウィンダミア人の老化現象である結晶化が進んでしまうのです。
 おそらく、身体的もしくは精神的に過剰な負荷がかかるとウィンダミア人の細胞が大きく損傷し、損傷がある程度を超えると回復しなくなると考えられます。

 そこで、療養に移りながらも、歌うことを諦めきれないフレイアとハヤテが会話します。

「私、歌で皆を助けるワルキューレなんに、歌うことが怖い。死ぬのが怖い」
「もう歌うな。俺のために生きてくれ」

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 ここで、ハヤテはフレイアに長生きしてほしいと頼みます。フレイアもハヤテに「好き」と告白し、ともに生きることを望みます。

 これは、映像的には『劇場版マクロスF サヨナラノツバサ』のランカがアルトへ告白するも返事を訊かないシーンのオマージュです。ランカとアルトは同じ戦場へ出るが恋は成就しないフレイアとハヤテは戦場と療養カプセルに別れるが恋は成就している、という対比でもあります。
 しかし、TVアニメ版『マクロスF』で死病に侵されたシェリル・ノームと主人公早乙女アルトの対話である以下

「もういい。無理して笑わなくていい……歌わなくていいんだ、シェリル」
「私にはもう歌しかないの!/怖いの、怖くて寂しくて……でもね、私はシェリル。シェリルとして生きるって決めたの」
「お前が歌うなら、その最後の瞬間まで、俺はお前の傍にいる」

 と対になる会話でもあります。
 シェリルはこの以前、一度歌を諦めます。しかし、そこでアルトは「お前が歌を捨てられるはずがない」と発破をかけ、シェリルは最終的に歌を選択します。
 孤児であり且つ唯一の味方であった養育者グレイスにも裏切られたシェリルにとっては、何も持たない自分に歌だけが残っており、

歌が全て → 全てを捨てて死んだように生きる
→ 歌を選ぶ

 という流れを辿りました。
 この時、アルトもランカもまだシェリルにとってはどこか自分の外側の存在であり、壁を隔てながらアルトに恋をしランカを意識していたと私は考えます。

 しかし、フレイアにはこの時点でワルキューレという家族のような仲間、恋人であるハヤテがいました。

「私……まだフレイアと一緒に歌いたい」
「大丈夫……何があっても、私はワルキューレだかんね」

 これは歌えなくなったフレイアと美雲の会話です。

 ワルキューレでいること = 歌うこと

 であると同時に、

ワルキューレのメンバーと共に歌う
= ワルキューレのメンバーと時間を共有する

 という必要があるのです。

 シェリルの「歌う」とフレイアの「歌う」は、このように「歌う形」が根本的に違いました。

歌と人生を両立 → 生きて歌うために歌わない

 という流れをフレイアは辿ります。
 そして、ハヤテは「俺のために生きてくれ」と自分を軸にフレイアを繋ぎ止めようとしました。

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→ 二度目の拒否

・二度目の覚悟

  ――平和を待てない「消耗品」の命/「歌は元気」

 ところが、神官ヨハンの「なんのために生き なんのために歌うのか」の問いを再考し、フレイアはこの戦場で歌うことを決めます。

「なんのために生き、なんのために歌うのか。ごめんなさいヨハン様……ごめんねハヤテ。私、歌う。私にとって生きるってことは、ワルキューレとして歌うってことなんよ」

 ここで、このフレイアの台詞の前にハヤテが言ったことを考えます。

 ハヤテは「全部の戦争を無くし、平和な世界でワルキューレの皆とフレイアは平和な歌を歌う」という主旨の発言をします。
 また、TVアニメ版『マクロスΔ』においてはカナメが

「夢があるんです。ワルキューレのみんなで好きな歌を歌う。戦争もヴァールも関係なく思いっきり自由に。小さなステージでもいい…いえ嘘です。やっぱり銀河中の人に私達の歌を届けたい。」

 『劇場版マクロスΔ 激情のワルキューレ』ではアラドが

「ハヤテ、ミラージュ、チャック。とっとと戦争なんか終わらして、お前達を自由な空に飛ばせてやる」

 と述べます。

 ここで、彼らの目標は平和であることは明確です。
 では、フレイアは平和を待つことは出来ないのでしょうか?

〈平和になってから歌う〉
メリット
 ・ワルキューレの皆と歌うことができる
 ・長く歌うことができる
 ・ハヤテと長く時間を共有できる
デメリット
 ・ワルキューレの皆と歌えない時期がある
 ・歌えない期間がある
 ・どれだけの期間歌えないか不明
 ・戦時下の人々を元気に出来ない
〈戦場で歌う〉
メリット
 ・ワルキューレの皆と歌うことができる
 ・歌えない期間がない(生きている間中歌える)
 ・戦時下の人々を元気に出来る
デメリット
 ・ワルキューレと早く歌えなくなる
 ・長くは歌えない
 ・ハヤテと生きる時間が短くなる

 2つの選択肢には、このようなメリットとデメリットがあります。

 大きな違いは「歌えない時期があるか」「戦時下の人々を元気にできるか」「ハヤテとどれだけ生きられるか」の三点です。

 フレイアの決意は「生きるということはワルキューレとして歌うこと」です。平和な世界で好きな歌を歌うことはワルキューレの目標ですが、フレイアは自身が戦時下で歌に勇気を貰い元気になったためにワルキューレを志望しました。ワルキューレである理由が、そこにあるのです。

 フレイアは自分の有限な「人生 = 歌」から放出される「元気」を与えることをやめることが出来なかったと考えられます。

「歌は元気!」
「歌は私そのものだから!」

 これはフレイアの決め台詞と『劇場版マクロスΔ 激情のワルキューレ』での台詞です。

 短い人生ゆえに、彼女の人生観は常に「消耗品」だったとも捉えられます。
 彼女の短い人生の中で「止まる時間」を作ることはあまりに大きなデメリットなのです。止まっている間にも、誰かに元気を与えられるはずの「命」は消耗されていくのですから。

" 生きることそれだけで まるで時間がないよ "
――ルンがピカッと光ったら/ワルキューレ
" 一度きりの人生 一分一秒も後悔したくない 絶対!"
――Dancing in the Moonlight/ワルキューレ

  ――歌の「死と再生」 および無秩序のセイレーン

 上記とは別に、歌そのものとフレイアの関係性も考察します。
 フレイアは戦場へ歌いに出る前、ハヤテがフレイアに贈ったリンゴの種を見つめ、戦場へも持ち出します。
 これは、燃えて無くなった祖母のリンゴの樹から落ちたリンゴの実から採られたリンゴの種です。
 ハヤテは、これを使ってリンゴ畑の復興を提案していました。

物が消失しても、新たな物が再生する

 このリンゴは、このように「死と再生」を象徴すると考えられます。

修験道の峰入修行も「母胎回帰」すなわち象徴的な「死」と象徴的な「再生」の観念に支えられた仏の胎内での修行 ――コトバンク より

 このように、通過儀礼の中には「疑死再生」=「死と再生」をモチーフとした行いが存在します。
 フレイアは「歌」がリンゴと同じように、この「死と再生」の概念に当てはまることを直感したのではないでしょうか。

 『劇場版マクロスF サヨナラノツバサ』の中で

「たとえ あたしが死んでも歌は死なない」

 とシェリルが断言します。

 この部分を概念として再考した時、本作では「死なない=維持・継続」ではなく「死と再生の繰り返し=常に新しくなる」と位置付けたと私は考えます。
 ただし、リンゴの種と同じく、継承される部分もあるのです。

(「疑死再生」の) 儀礼期間中の特徴として,無秩序 (カオス) 的,非社会的あるいは曖昧な性格が現れることがよく知られている。――コトバンク より

 フレイアの死と同時に象徴的に再生したのは、フレイアを学習したセイレーンと考えられます。このセイレーンはクロムウェルが運用するAIとして学習を繰り返し「yami_Q_ray」という歌手ユニットとして1つの脳を5人分として稼働させ、かなり無秩序に破壊や堕落のメッセージを投げ掛けます。
 人間の能力や統制を超えるスピードで襲い来る無人機「ゴースト」の設定もまた、秩序の外側にあると言えるでしょうし、セイレーン及びクロムウェル自体が「銀河の秩序」の破棄を目論む者として描かれました。

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 さらに、このAIの本体は、胎児のような姿をしています。
 つまり、セイレーンは胎内にいるのです。

 フレイアの「 歌 = 人生 」が「学習」という形で
「胎内回帰」
→ 無秩序の「yami_Q_ray」の過程を辿り
「誕生」へ向かう
→ セイレーン(赤子)が「誕生」する

= 「フレイアの歌 = 命の歌」の「再生」

 私は作中に描かれた「疑死再生」の一つを、このようなプロセスと考えます。
 「星の歌い手」という「神的存在」が一度破壊され、「人間的存在」に再生されたとも考えられます。
 ここに、後述する「婚姻儀礼」による「疑死再生」のプロセスも重なってくると考えます。


 さて、フレイアの考えを知ったハヤテは、それを受け入れます。

「飛んでハヤテ!私歌う!」
「ワルキューレを守る、それがΔ小隊だ!」

 ここで、フレイアは初めて結晶化した自分の手の甲をハヤテにしっかりと向けて、見せるのです。
 
ハヤテはフレイアの命が縮まることを覚悟し、彼女の手をしっかりと目にします。

→ 二度目の覚悟

・受容

  ――「結婚式」と「出産」

 物語の終幕、フレイアが亡くなります。

 この時、

・フレイアの衣装が白く変化
・ハヤテからフレイアへのキス

 などから結婚式を模していることがわかります。

 「婚姻」もまた、花嫁が生家のコミュニティで社会的な死を迎え、婚家のコミュニティで新たな誕生を迎える「疑死再生」の通過儀礼です。

" 歌は風の中に生きる "
――愛してる/ワルキューレ

 フレイアの死を受け、カナメが「命の歌」を五人で歌い続けると宣言します。上記は映画で作られたアルバムに収録されたフレイアがメインの曲の歌詞です。
 これらのことから、フレイアの死後も彼女の歌が生き続けると解釈できます。
 「フレイアの死と歌の再生」「結婚式」の儀礼が象徴しているのではないでしょうか。

 元々、この映画はフレイアが存命し結婚式で終わる予定だったそうなので、その案を入れ込んだと考えられますが、今回は少し民俗学的に解釈しました。

 そして、フレイアの人生を学習したセイレーンが赤子として誕生します。
 横たわる女性に赤子を差し出す男性、という構図は出産のシーンを重ねていると考えられます。
 すると「無秩序=胎内回帰」からの誕生とも考えやすいです。

「アタシも歌う!」

 成長したセイレーンはこのように述べます。

 フレイアの歌は「風の中に生きる」とともに、セイレーンを通し「新しい歌の誕生」も迎えた。これが「再生」であると私は考えます。
 「風の中に生きる」については、後述で再度掘り下げます。

  ――歌の《兵器→文化》の「回帰システム」

 このセイレーンは、ハヤテが救出しました。
 ハヤテはクロムウェルを殺したかに見えましたが、クロムウェルは死んでおらず、結果的に「誰も殺さずセイレーンの命を守った」形になりました。
 歌の兵器利用が終わったのも、この瞬間です。

「私達の歌が兵器に……」

 物語の序盤でメカニックとしてバルキリーをワルキューレの歌で増強されるように改修するマキナが漏らす言葉です。
 今まで、ワルキューレの歌はヴァールの精神を落ち着かせる、人々の精神を呼び覚ます、という「正」の働きのみをしていました。しかし、今回は兵器利用という「負」の働きをしました。

 最終戦闘の佳境でフレイアがハヤテに対する想いを歌った時、

「綺麗な歌……」

 とウィンダミア人の少女が呟き、ウィンダミアの人々は伝説の歌を歌いはじめます。
 やがて、セイレーンも歌い合唱となり、そのセイレーンの救出がクライマックスの終了です。

 これをもって、人の心を動かす文化として、歌が兵器から回帰したのです。

 さらに、これ自体が「マクロスシリーズ」で繰り返されてきたことでもあります。「滅びの歌」や「アイモO.C.」など直接的な攻撃、「愛・おぼえていますか」のような間接的なダメージ、これらを繰り返しながらも「文化としての歌」が同時に描かれ、歌が心を動かすこをひたむきに信じた熱気バサラのようなキャラクターが生まれてきました。

「みんなー! 文化してるー?」

 これは『マクロスF』のシェリルがよく問い掛ける台詞です。歌や芸術といった「文化」を楽しんだり感動したり、心動かされることを「文化する」と表現しています。

歌から「文化する」気持ち(=心)は取り除けない

 この文化的側面を取り除けないという「自浄作用」とも言える歌の「回帰」のシステムを、明確なテーマとして表に提示したのが本作とも考えられます。


 さて、フレイアの死の瞬間は、ハヤテとのキスの最中です。胸元に置かれた手はワルキューレポーズである「W」を形作っていました。

 「結婚式」の儀礼は新たなコミュニティでの誕生を意味すると先述しました。
 フレイアとハヤテの夫婦はここから「始まる」と同時に、「ワルキューレ」というコミュニティも

5人 → 4人 + 風の中の1人

 という新しい枠組みに作り替えられ、「フレイアの死と再生」を迎えています。

 さらに、本作のタイトルである「絶対LIVE!!!!!!」は、「!」の個数が6個であることに意味があると公開前に述べられていました。
 これは「ワルキューレ5人+1人」と考えられます。この1人はセイレーンや、視聴者であるあなた、など様々な意味に捉えられます。いずれにせよ、変容したということです。

 「フレイアの死」は「終わり」ではなく、「新たな枠組みの中での新たな誕生」であるのです。

 この枠組みと彼女自身の変質については、後述の『●「婚姻儀礼」―― 生家の役割を持った「ワルキューレ」』の項目で掘り下げます。

 このことから、ハヤテはフレイアを「妻にする」という受容に至ったと考えられます。
 よって、ウィンダミア人の遺体が初めて映像として画面に映されます。

→ 受容

 ⇒  主人公の変遷の結論――幸せ

 主人公ハヤテはフレイアが短命であることについて

《 一度目の覚悟 → 一度目の拒否 → 二度目の拒否 → 二度目の覚悟 → 受容 》

 という変遷を辿りました。

 これを細かく見ると以下のプロセスとなります。

《 一度目の覚悟 》
「死」に直面せず「観念的」な覚悟

《 一度目の拒否 》
「死」に直面し「死」を拒否

《 二度目の拒否 》
「恋人との別離」への拒否

《 二度目の覚悟 》
「 死と再生 ( 死 = 生 ) 」の理解による覚悟

《 受容 》
「死」を迎え新たな「誕生」を迎えるという
「死と再生」の受容

 この変化の過程は、「ウィンダミア人の遺体」が映されない → 映されるという映像的な変化にも表われています。

 また、受容――「結婚式」と「出産」の項目では、フレイアの「嫁入り婚」と仮定し生家から婚家への「疑死再生」に当てはめた考察をしました。
 これは、「歌」を主軸とした時に、「ワルキューレ」をフレイアの生家とも捉えられるためです。

 これをフレイアの生家を「故郷」とした別の観点では、「婿入り婚」と考えることもできます。
 フレイアの最期、エンディング後のシーンはどちらもウィンダミア王国でした。
 このことから、ハヤテは妻方の土地で祝い、居住する「婿入り婚」とも定義できます。

 エンディング後、ハヤテは

「フレイアは歌う」

 という現在進行形の台詞を述べます。
 また、物語冒頭で空を飛んでいる時に行方不明の父親を「風の中に感じる」という主旨の発言をハヤテがします。この父は既に亡くなっていました。

" 歌は風の中に生きる "
――愛してる/ワルキューレ

 先述もしたこの歌詞と考え合わせると「フレイアの歌は風の中に生き、ハヤテは風の中にフレイアの存在と歌を感じる」と読み解くことができます。

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 以上のことから、彼にとって、「結婚 → 夫婦生活」がフレイアの死後も継続していると考えられます。
 よって、彼の「幸せ」が続いている、と考えることができます。

 同時に、「歌い続ける永遠」の完成「誕生」と「婚姻」と「死」の完成によって、何にも縛られない確立された唯一無二の「絶対の生」を得たフレイアもまた「幸せ」であると結論します。

 一方、この「歌は風の中に生きる」は実際にフレイアが風の中で歌っているわけではありません。
 では、何を指すのでしょうか。クライマックスでは「風は一つに」というワードを象徴として、ウィンダミアの人々とセイレーンがワルキューレとともに合唱します。「一つになった風」の中に「個々の風」が存在していると考えられます。
 前作では、「個々の風を消滅させて風を一つに」しようとしました。今回は集合体としての「一つ」であり、少なくともウィンダミア人の大多数が正しいと感じる「風は一つに」はこれでしょう。
 ウィンダミア人は「ルン」によって「フォールド波」を「風」として検知することができます。
 そこで、風が一つになることで「風」の感覚を共有できると仮定すると、フレイアのフォールド波の感覚も共有されることになります。もし、『マクロスF』のバジュラの「フォールドネットワーク」のようなものがウィンダミ人のルンでも微かに形成されるとしたら、フレイアの感情や感覚がここに残り続ける可能性もあるでしょう。
 「ルンの花」の現象は「共有」にも見えました。

 しかし、現実的に考えるのであれば、フレイアの歌やフォールド波や感情、意志が人々の記憶に残り、各人がその記憶を思い起こす、あるいはその記憶を応用発展させ、各人の人生や歌に関わり続けていく。さらに記録された歌声は「命の歌」として永遠に聴く者へ影響を与え続ける、と考えられます。

● 芸能型「異常人物」の「未開社会」への帰還――「神官」の継承

 民俗学において、村社会の中で異常を抱える者を「異常人物」と呼びます。これは、積極的すぎる「能動型」や、大食いや健脚などの「生理型」など複数に分類されます。
 フレイアは故郷のレイブングラス村の常識から外れており、「歌」に秀でた「芸能型」の「異常人物」に分類されると考えられます。
 この「異常人物」の「歌舞」の多くは、信仰に端を発している場合が多々あります。鹿児島の「唄ゾン」などです。
 フレイアは多くの「異常人物」のように「未開社会」から排除はされませんが、彼女自身が「異端」として村を出たのです。

 今回、ウィンダミア王国には「風の神」と「村の娘」の恋にまつわる「伝説の歌」が継承されていると発覚しました。

 このことから、フレイアには「人と神を繋ぐ村の異常人物の神職的役割」も課せられていた可能性も推察できます。「異界から来た神と村娘の交流」を「伝説の歌」という形で未開社会に思い出させたのです。
 つまり、フレイアのウィンダミア王国への帰還には信仰により人々をまとめ導く意味があったのではないでしょうか。その結果に合唱があるとも考えられます。
 すると、神官ヨハンの問い掛けを会得したフレイアは、彼の神官という立場も継承したとも推察できます。

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● セイレーン――「異人(マレビト)」から「客神(マロウドガミ)」へ

 〈異人〉の神秘性の由来は、かれらが混沌のかなたからの訪れ人であり、また、秩序と混沌を媒介する両義的存在と信じられていることにある。無定形の混沌[カオス]は、崩壊もしくは危険の象徴であるばかりでなく、創造もしくは能力[ちから]の象徴でもある。混沌に内在する正と負の両義性といってもよい。混沌[カオス]を背負った〈異人〉は、そうして、正・負に引き裂かれた神秘性を身にまとうことになる。
――『異人論序説』赤坂憲雄

 「未開社会」には、「異人」を「穢れ」をまとうとして浄化の儀礼を行った後に、自分たちの秩序へ「歓待」するという習俗があります。
 上記のように「異人」には神秘性、秩序と混沌の両儀正があり、崩壊と創造の両方が内在する存在です。

 ウィンダミア王国にとって、外から来る人々は等しく「異人」です。

浄と不浄の転換の象徴メカニズムは、多く祭式として文化のなかに埋めこまれている。崩壊の象徴である「悪しき聖」=不浄は、祭式を媒介とするコンテクストの変換をつうじて、創造の象徴である「善き聖」=浄に転化する。
 いにしえの日本の〝まつり〟は、海のかなたの常世の国から周期的に来臨する〝まれびと〟を迎え饗応する行事であったという。
――『異人論序説』赤坂憲雄

 よって、ケイオスの停戦記念ライブは「祭り」の形で迎えられました。

 クロムウェルとの戦闘を終えて、ハヤテはセイレーンを連れてウィンダミア王国へ帰還します。
 これは、ウィンダミア人であるフレイアの「家族」として迎え入れられると考えられます。神官ヨハンの遺した「いつか風は一つに」の言葉を、フレイアが歌によって実現し、「異人」が「未開社会」に迎え入れられたとも推察できます。
 その中で、セイレーンは

" 始まる destroy 終わりの音が "
" 天地創造の序章 "

――Diva in Abyss/Yami_Q_ray

 と歌うように、破壊と創造の二面性を軸に生まれた存在です。同時に、ウィンダミア王国に継承されていた古の巫女「星の歌い手」の細胞片から生まれています。
 彼女は外界で混沌と無秩序を背負い、帰還した存在なのです。「異人」は「外界から来た客神」として能力を神聖視される場合があります。彼女は、歌い手である古の巫女の細胞を持つ者です。
 彼女に「歌の能力」が発言した場合、彼女もまた聖性を持つ「異常人物」の立場に置かれるかもしれません。
 「客神」は、神職の判断で土地の神社の一角に祀られもします。セイレーンは、この「客神」の立場とも考えられます。「迎え入れた」ことの象徴なのです。

 これは、『マクロスゼロ』で「マヤン島」というコミュニティを訪れた「異人」であった「鳥の人」シンがコミュニティを去った結末とも対比できます。
 この「マヤン島」の神話にはウィンダミア王国の神話との共通点が多く、同種のコミュニティが対称的な結末を迎えたとも考えられます。

● 「婚姻儀礼」――生家の役割を持った「ワルキューレ」

 フレイアは「キス」をしながら最期を迎えます。「キス」は冒頭のライブシーンでも歌われています。

" この果てしない 銀河のなか 恋をした "
" 予備の無い命 you and me 限界値まで
どうか受け止めて 今口づけを "
――唇の凍傷/ワルキューレ

 「この果てしない~」の部分では、フレイアと美雲が抱き合って踊ります。

「ワルキューレ」と歌う「キス」

 から物語が始まり、

「恋人」との「キス」

 で物語が終わるのです。 

 ワルキューレをフレイアの家族と捉えると、先にも述べたように、「ワルキューレ」という生家から「ハヤテ」への「嫁入り」とも仮定できます。

 物語開始時点のフレイアの「歌」は「ワルキューレの中で作り上げられた歌」です。
 この「歌」を軸とした「嫁入り」「故郷ウィンダミア」と「風」を軸とした「婿取り」という二重の「婚姻儀礼」が物語の中に落とし込まれていることが、先の項目ではわかりました。

「ワルキューレは絶対に5人じゃなくちゃ駄目なんだ」

 フレイアが歌うことを決めた時の、レイナのこのような台詞があります。
 ここで言う「5人」は「生存する5人」ではありません。「生存する5人」が必要であれば、フレイアを歌わせることはできないからです。
 この時、「歌うことは生きること」という結論を出したフレイアの「絶対生きる」という発言から、

「「歌 = 魂」が5人 」

 揃わなければいけない、同時にこれは「完全」であり「失われない」と考えられます。

" 誰が欠けても不完全 "
――ワルキューレはあきらめない/ワルキューレ

 この歌詞からも、ワルキューレは「不完全」を求めていないことがわかります。
 つまり、レイナの発言は不完全に向かう言葉ではありません。

 藤田稔氏は誕生、結婚、死という人の一生は「魂の儀礼」であり、「婚姻儀礼」に「死と再生」の観念がみられるのは「花嫁の肉体とともに魂が移動する」からである、という旨を著書で述べられています。

 『マクロスΔ』では文芸を担当された小太刀右京氏は「プロトカルチャーは正確にはプロトカルンチャーでありルンが魂の意味を持つ」という設定を加えています。
 つまり、「ルン」を持つウィンダミア人は肉体に魂が表出しやすい存在なのではないでしょうか。

 以上のことから、フレイアが「絶対生きる」ために「ワルキューレとして歌う」ことは、「肉体からの魂の解放」であり、

「肉体の5人」から「魂の5人」へ 再結合 = 再生

 しているのではないかと私は考えます。

 そして、これが「ハヤテへの嫁入り」の準備段階であり、「魂としての生」が「歌は風の中に生きる」へ繋がると考えます。


● 歌詞――考察の必要が無い率直なメッセージ

 考察はここまでにしたいと思います。

 ここからは、作中に登場した歌詞の率直なメッセージが持つ魅力を列記していきます。


 《 冒頭の停戦ライブシーン 》

" この果てしない 銀河のなか 恋をした "
" 予備の無い命 you and me 限界値まで
どうか受け止めて 今口づけを "
――唇の凍傷/ワルキューレ

 これは先の項目でも記した歌詞です。
 登場人物たちに限らない、あらゆる銀河中の人々の出会いと別れを思わせ、恋愛に限らないあらゆる物語を想起させる豊かさが魅力です。


 《 ハヤテとフレイアの感覚拡張 》

" 一年が 一日が 一瞬が 何秒かなんて
考えたことないでしょ? "
" ねぇ 私 今生きているわ "

――風は予告なく吹く/ワルキューレ

 圧倒的な敵に気圧され、味方を守るために歌ったフレイアはハヤテと感覚拡張を起こし、暴走します。老化現象である結晶化が進む中、命を削りながら歌われる歌詞がこれであることが胸に迫ります。


 《 フレイアが歌う決意を固め戦場へ 》

" あきらめない あきらめない あきらめない "
" 独奏(ひとり)で背負う美学? そんなのいらない!"
" 五つの道が五線譜になり 語り継がれる物語 "
" 熱く 熱く わたしを 刻み付けて "

――ワルキューレはあきらめない/ワルキューレ

 掠れた声を振り絞り立ち上がるフレイア、彼女の「絶対生きる」に対し「一緒に生きる」「命の歌を絶対に響かせる」という決意で応えるワルキューレがとても熱く、5人が顔を見合わせ手を繋ぎお互いを支え合いながら「五つの道が五線譜になり」「語り継がれる」と歌うのが印象的です。


 《 ハヤテへの愛の歌 》

" もしかしたらキミはすべてわかってたの?
ありがとう そばにいて 見守っていてくれた日々に
ありがとう "
" こんなにも誰かを愛せるなんて
知らなかったこの想い 戻れるはずなんてないから "

――God Bless You/ワルキューレ

 戦場を飛び回るハヤテにフレイアのホログラムが寄り添い、視線を交わしながら飛ぶシーンで流れます。戦場の中で、ほんの一瞬、二人だけの世界になります。以降は二人の前には常に敵がいる描写なので、大切なシーンです。


 《 静かに歌いだし、合唱へ 》

" 行く道も 来た道も 間違いなど一つもない
とても幸せだから "
" 生まれた 喜びを 奏でよう 愛してる "
" 遂げたい想い 命が燃える
生きる喜び あなたの元へ "

――ALIVE~祈りの唄~/ワルキューレ

 ウィンダミアに伝わる伝説の歌、もしくはそれが変化したものと思われます。地球人に反発していた人々やセイレーンなど、相容れないはずの人々が歌で一つになった瞬間であり、過ちや停滞や煮えきらぬ思いなど様々に抱えるものを一度認めて先へ進む歌でもあります。
 フレイアが声を枯れさせながらも、全身から溢れるように歌う「愛してる」が心に沁みわたります。


 《 フレイアとワルキューレの別れ 》

" 破れた 私のヌケガラ 拾って 君の声が聞きたくなる "
" この世 すべてに 意味があると 信じたいのに "
" 迷う心 それが 今日も 私が生きてる 証ね "

――宇宙のかけら/ワルキューレ

 フレイアが亡くなり、命の歌を5人で歌い続ける覚悟を決めたワルキューレが、直後に涙ながら歌い出す曲です。私のヌケガラ、という歌詞がフレイアを前にして歌われることに衝撃がありますが、魂の解放、歌が風の中へ生き始めたこと、を強く感じました。


《 映画の後に聴いてほしい、アルバムの新曲 》

" はじめて 会った時の いじわるな顔を 忘れてないよ "
" 特別な女の子に 私を変えたのは あなただった "
" 愛してる 愛してる 何度 生まれ変わっても "
" 愛してる 愛してる また あなたに恋をする "
" 大丈夫 "
" 歌は風の中に生きる "

――愛してる/ワルキューレ

 映画公開後、ほぼ全曲が映画に合わせた新曲であるアルバム『ワルキューレリボーン』が発売されました。
 この中に、映画で使われていないワルキューレ各メンバーがそれぞれメインとなったほぼソロ曲も収録され、フレイアはこの『愛してる』を歌いました。
 映画の中で、印象的だったハヤテとフレイアの告白のやりとりも歌詞に取り入れられており、風になったフレイアのラブソングのようにも聴こえる、映画観賞後にフレイアとハヤテを想って聴いてほしい歌です。


● おわりに――「未開社会」「神官」別の形の映画『ミッドサマー』

 今回の映画は、見た目の鮮やかさや華々しさに反して、かなり「未開社会」の要素を強く感じました。

 生きる時間の長さの違いから、閉鎖的なコミュニティであり、独自の信仰を持つのが「ウィンダミア王国」です。日本の「村社会」に近しいものです。
 新しいキャラクターのキーパーソンに、「結界」を張る役目を担い人々の反発を抑制する立場である「神官」が選ばれたことは、「族長」の権威を背景とした公的な威厳を持つ「カミ」の信仰の担い手であるからだと考えられます。ウィンダミア王国のカミは「風」あるいは「風の神」と考えられます。
 「未開社会」と「外界」、「人々」と「異人」を結ぶか否かを決定する「信仰」が、神官ヨハンからフレイアへ、フレイアからセイレーンへ継承され、「村」を壊すことなく「無秩序」から生じたセイレーンを含む「外界」を招き入れるに至ったのではないでしょうか。
 ところで、私は前に映画館で『ミッドサマー』を観ました。これは「マレビト信仰」を下地としたホラーで、一見ただの長閑な村ながらその実態は未開社会であり、異人である主人公達が異様な五月祭に巻き込まれてしまうのです。ホラーなので、信仰と儀式の中で異人を祀ると同時に贄として殺害もしてしまう。
 『劇場版マクロスΔ 絶対LIVE!!!!!!』はホラーではありませんが、どこかが掛け違えば、『ミッドサマー』のようなホラー展開になっていたやもしれません……。勿論、作風として有り得ないので、杞憂ですが😊

 これは、映画鑑賞の視点としてはごく一部分でしかありません。

 ぜひ、あらゆる視点で映画を鑑賞されてください。

 また、この「未開社会と関わる異人」は、主人公ハヤテであり、セイレーンであると同時に、視聴者の我々でもあります。これを体感することは、映画館でしか出来ません。

 ぜひ、映画は映画館でご鑑賞ください。

 お読みいただき、ありがとうございました。


● 映画情報

『劇場版マクロスΔ 絶対LIVE!!!!!!』
監督:河森正治 ヤマトナオミチ(副監督)
脚本:根元歳三
制作:サテライト
製作:ビックウエスト
劇場版マクロスデルタ製作委員会
配給:ビックウエスト
公開:2021年10月8日

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★映画冒頭5分公開

★TVアニメ『マクロスΔ』第1話【無料配信】

〔参考〕

『柳田国男監修 民俗学辞典』東京堂出版

研究論文「婚姻儀礼における擬死再生のモチーフ」
小野寺綾
 

EMERGENCE 創発 / 備忘録―あるいは「巨人の肩に乗る」―
複雑性と両義性

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