「楽しむ」を味わって食べる
「楽しむ」を食べると、実は苦い。
それに気付いたのはつい最近のことだ。
小さい頃の「楽しむ」は甘くてサイダーの味だった。
例えば、学校の行事や家族で遠出するときは前日の夜が一番楽しい。
遊園地へ行けば一目散にジェットコースター乗り場へと向かい、取り憑かれたかように何度も乗った。
お化け屋敷は怖かったけれど、そこで味わうスリルやドキドキは「楽しい」の匂いに似ている気がした。
本の世界に飛び込めば、まるで自分の未来がそこにあるかのように、夢の世界を泳ぐことが楽しかった。
習い事を始めるのも楽しかった。
新しいことに挑戦して、それが些細なことでも達成できると楽しい。
誰かに褒められれば嬉しくて、もっと楽しくなった。
テストで良い点を取ること、賞をもらうこと、何か特技を見つけること…
自分を認めてもらうことが「楽しい」のだと感じるようになった。
社会という広大な庭に出てしまえば、「楽しむ」ことはさらに旨味を増す。
頑張れば誰かが喜んでくれて、自分の居場所ができて、次第にそれが評価になっていく。評価という自己価値が上がれば生活の質も上がる…そんなローテーションが社会の「楽しい」だと思っていたけれど。
いつの間にか「楽しい」という感情は消えてしまった。
「楽しい」を見つけたくて、友達と旅行へ行ったり遊んでみたり、
居酒屋さんで知らない人とお話するのもいいかもしれない。
たまには恋をしてみよう。
けれど、一時の「楽しい」という感覚は味わう間もなく消えてしまう。
永遠の「楽しい」はどこにあるのだろう。
そんなことを考えるようになって、ふと、自分が何者なのか見えなくなってしまった。
迷子の子供が世界に怯えながら親の手を探し求めているみたいだ。
不安な夜が続いて、いつの間にか歩くことを放棄していたのかもしれない。
そんな時。
遠く前を歩く人影に気付いて、思い切って手を伸ばしてみた。
空を覆う影は私の後を追いかけて、終いには幾重にも重なって私に絡みつく。それでも必死に前の手を掴もうと足掻いてみたら、
それはいとも簡単に。ポロっと私のひらめきとなって零れ落ちた。
私にとっての「楽しい」は、夢を叶える過程にあったはずなのに。
暗闇の中をもがいて出会ったひらめきは、じわじわと私の中に沁み込んで、充実感という爽やかな「楽しさ」になって帰ってきたのだ。
でもそれはまだ薄味で、昔のような濃厚な味わいには至らない。ゆっくりと熟成させて、自分好みの味に仕上げていくしかなさそうだ。
「楽しむ」ことを味わい尽くすのは案外…いや、かなり骨の折れる作業なのかもしれない。
そんなことを考えながら、私は今日も「楽しむ」を食べている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?