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殺めた記憶 欲と「救済」

 睡眠時間が減った。寝つきが悪く、眠っているのかいないのかよくわからない感覚をふわつく。夢のようなものを見て、でもそれが夢なのか、正気を保った意識が合成した映像なのか、あまりよくわからない。映像がクライマックスに達するとあっけなくふだんのわたしに戻る。ふだんのわたし?ごくごく平たんに暮らすふだんの自分だ。

 こころ
 あるいは
 意識無意識の集合

 それらにはおびただしい数の「ひとを殺めた記憶」が潜んでいるような気がしてならない。わたしの脳が示す映像にはよく「ひとを殺めた記憶」が出てくる。「ひとを殺める行為」ではなく「ひとを殺めた記憶」だ。
 だから目が覚めたあとも、「どこかで女のひとを殺してしまった」ような気がする、としばらく胸が苦しい。しかしどう考えても現実のわたしには「どこかで女のひとを殺す」という過去がない、時空がない。

 こころ
 あるいは
 意識無意識の集合

 にわたしの魂は属している。と考えると話がわりとわかりやすい。だから「ひとりの人間」が心になにかを感じると、多くの場合「複数の人間がおなじようななにかを察知している。というような現象が起こる。
 ひとりの不安は複数の不安である。
 この公式はわりと当たっているのかもしれない。時代の不安、群衆の不安、民族の不安。
 一方
 ひとりの幸福は複数の幸福である
 こちらの公式には首をかしげる。「幸福」は不安とはやや異なる、「幸福」を決めるのは個人の感受性である場合が多い、と思う。これはわたしの感じ方であり、多くの他の方々はひとりの「幸福」を複数は同時的に共有する、と考えているのかもしれない。よくわからない。

 今朝は身体が冷えた。冷房が強すぎたのか、右足が少し痛む。昨夜から早朝までさまざまな作業を続け、体力と意識の限界に達した、泥酔者のようにベッドに倒れエアコンを切ることを忘れた。冷えた時空で「夢、あるいは集団の記憶」に苛まれた。
 わたしの夢は極採色を用いて複数の人間の欲を描く。音楽まで流れている。たいてい夢は日本語ですすむが、ときおり、英語やスペイン語の会話が生ずる。流ちょうな会話とはいえない。語彙もイントネーションも現在のわたしの外国語能力を超えないところが現実的であまり夢らしくはない。

 冷静にものごとを捉えたいとの願い
 激しくつのる「希望」への熱

 ふたつを行ったり来たりしながらこれを書いている。
 書くことに縛られることなく、しかし書くことはおそらくやめはしないだろう。「書く」行為は自分の内側から生ずる、きわめて個人的な、ある種の「救済」であることをわたしはそろそろ認めてもよさそうだ。

 
 

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