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二ンフォマニアと青い花

 女の唇は平面で出来ていた。だから彼女は画用紙を埋めるように口紅を塗る。唇はべったりとだらしなく幾分卑猥な印象に仕上がる。卑猥な印象の唇のままバス停に立ちバスを待つこと8分、市内循環バスがやってくる。女が乗り込むとバスの中には市立病院に向かう老人が複数いて、かれらはいっせいに乗り込んできた女を見る。老人たちの視線は、女の服装、腰回りの肉、ふくらはぎにはりついたスラックスのライン、尻のはりぐあいと、髪のかたち、それらの印象を一瞬のうちに手繰り寄せ、「いい女だ」かそうではないかを判断するのだった。

 あるとき、彼女は自分の唇が平面ではなく、ぼってりとした肉であることにようやく気づいた。唇はある程度の固さを保ち、指で押さえると指の肉と唇の肉の両方が互いの圧と熱を鋭く感じとる、唇はとらえようのない重さと軽さを同時に含み、意図すれば好きなカーブを描くことさえ可能だ。女は自分の肉体の各パーツを考えた。首筋、ひじ、二の腕、乳房、背中、ウェスト、少し肉付いた下腹部、茂みの奥の湿り、小さな赤いおできの出来た尻、引き締まった太もも、朝によくつるふくらはぎ、鋭い足首のライン、ひらべったい足の裏。
 神の造形物としての女の身体は見えない子宮を含め、きわめて技術的かつ文学的だ。核兵器より精密に出来ている。いかなる春画よりもエロティックだ。
 性の象徴として唇を意識しはじめた女は口紅の塗り方を変えた。今までの赤いクレヨンで平面を塗りつぶすのと同様の無神経さを改め、唇の細かい隆起にそって紅筆をやさしく押しあてるようにして唇の肉に少しずつ色を与えるように全神経を唇と紅筆が接するその瞬間に集中させた。

 ヒールの高いサンダルに素足を通すと手入れの行き届かない足の親指に黒い毛が3本生えている。これはいけないわ、女はすぐさま毛抜きで3本の黒い毛を抜いた。抜くときチクっと軽い痛みを感じたが、女にはその痛みと軽い官能の区別があまりつかない。
 サンダルをはくと女の足首の華奢がより目立つ。若いころ「きみの足首を見ると発情する」といった男がいた。その男を女は猿よりも醜いと見ていたため、「発情する」とダイレクトに発言されても、なにも思わなかった。なにも感じなかった。

 唇に思いのままの弾力と色彩を持たせ、高いヒールのサンダルをはき、女は今日も市内循環バスに乗る。病院通いの老人たちに「肉体」を見せつけるのが愉快なのと、彼女自身、病院の精神科に通う患者でもあるからだ。

「夢が長い」と彼女は担当医に訴える。
 青い小猫が部屋に訪れ、彼女は小猫にミルクを与えた。猫はしだいに肥大化し、夜中になると彼女の足をかじりはじめた。かじられると本当に痛いので彼女は猫を突き飛ばした。猫は大喜びで鼻息あらく彼女に襲い掛かってくる。そんな夢のあとで、さらに別の夢があらわれて・・・
 ここまで話すと担当医は「それで、さいきんはよく眠れているの?」とたずねた。以前、この担当医はこんな風ななれなれしい口の利き方をしなかった。「よく眠れていますか?」あるいは「睡眠時間はじゅうぶんに取れていますか?」だった。いつ頃からだろう担当医と彼女のあいだに独特の幼児のようなコミュニケーションがとられるようになった。

「よく眠れているの?」
「ごはんは食べた?」
「なにを考えているの?」
「きみは僕が好き?」

「小刻みに寝てるの」
「スパゲティに納豆をかけて食べた」
「なんにも考えてない」
「わかんない」

 女はそのうち担当医が自分の部屋をおとずれるのだとすっかり信じている。自分の肉体を求め、熱い刀をぶらさげて担当医が自分を抱きにやってくるのだと信じている。担当医はいかつい裸体が直接白衣を着ているように見える。粗野で荒々しく抜け目のない目を女の肉体にはわせる。

女は二ンフォマニアという言葉をネットで知った。
わたし、きっとこれね。
女はテーブルに飾った青い花にささやいた。
青い花はなにも答えない。

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