なぜBは死んだのか
学校の国語の授業では、「なぜ」と問うことがあります。
物語で、「なぜ〇〇は××したのか」。
評論で、「〇〇を××というのはなぜか」。
「なぜ」は飛躍を埋める問いです。
〇〇と××の間にいくらかの飛躍があるとき、それが問われる。
その飛躍を、「〜から」と埋めるのが解答者の役割です。
僕は、この「なぜ」の問いはかなり慎重に扱わなければならないと考えています。
なぜか。
問い自体が攻撃的な側面を持つうえ、想定される解答が多層的だからです。
原因と理由の違い
まず、「なぜ」が求めるものについて。
それは原因とか理由とか呼ばれるものです。
原因と理由はかなり似た言葉です。
「Aの原因は?」を「Aが起きた理由は?」に置き換えても、特に違和感なく読めます。
しかし、これらの概念は厳密には異なります。
辞書によれば、
原因……ある物事や状態を引き起こすもと。
理由……物事がそのようになったわけ。筋道。また、それをそう判断した、よりどころになる、またはする事柄。
これだけを見てその違いを明確に理解できる人は稀です。
しかし、以下の例に付随する「なぜ」の問いを追っていけば、自ずと見えてくるはずです。
殺人事件の例
さて、ここで問題です。
Bはなぜ死んだのか。
この問いには、答え方がいくつかあります。
どう答えるのが最適なのか。
原因を求める
まず、Bの死を「原因」の観点から考えてみます。
原因というのは、常に「結果」とセットです。
なぜなら、辞書にもあるとおり、原因は「ある状態のもと」であって、それだけで成立する概念ではないからです。
「ある状態」があって初めて原因がある。
その定義からいって、原因だけが自立して存在し、結果が存在しないということはあり得ません。
つまり、原因は結果から遡って考えなければなりません。
意識すると当たり前のことに見えますが、これがなかなか気づけない。
ここでいう結果は、Bの死。
では、Bの死の原因は?
直接的なことでいえば、それは「出血多量」です。
「Bはなぜ死んだのか」→「血を大量に失ったから」
この答えは正しいか。
もちろん正しいです。
しかし、これだけでは足りない、と誰もが思うでしょう。
そう、足りません。もっと言わなければならない。
Bが死んだのは、「心臓が活動を停止したから」。
……そういうことじゃない! と全国の国語の先生からのツッコミが聞こえました。
いえいえ、そういうことなのです。原因追求型の思考というのは。
さらにいえば、原因となった出来事にも「もと」はあります。
少し飛躍気味になりますが、ざっくりと追っていきましょう。
Bが死んだのは、心臓が止まったから。
心臓が止まったのは、血を大量に失ったから。
血を大量に失ったのは、Aに銃で撃たれたから。
まだ終わりません。
Aが銃を撃ったのは、Aが銃を持っていたから。
Aが銃を持っていたのは、Aが存在していたから。
Aが存在していたのは、Aの両親が存在していたから。
Aの両親が存在していたのは、Aの両親の両親が存在していたから。
……………全ての事象が起こるのは、この宇宙が存在しているから。
もう、最後はトンデモ話になってしまいましたが、要はこういうことなのです。
わかりやすくするために一本道で辿りましたが、実際にはこれが無数に分岐し、最終地点、宇宙創成で再び合流する。
原因は、このように無限後退するのです。
すべてのテーゼに、「なぜ」と問えてしまうから。
理由を考える
では、「理由」を意識して考えると、この不毛な結末は変えられるのでしょうか。
理由とは、辞書に「わけ」「筋道」「判断」「よりどころ」とあるように、
人間が考えて決めるものです。
つまり、物質的で強固な因果関係とは異なり、
「ある文脈の中で、それが出来事の引き金になっていると共通理解を得られるもの」
を理由と呼ぶのです。
ここでいう「共通理解」を探ることが、国語の「なぜ」に答えるうえで大事な点です。
殺人事件の例でいえば、Bが死んだ理由はいくつか考えられます。
①輸血パックが足りなかったから。
②きちんとした治療を受けられなかったから。
③ベテランの医師が不在だったから。
④救急車が渋滞に巻き込まれたから。
⑤Aに銃で撃たれたから。
この中で最も共通理解を得られるものは、圧倒的に⑤だと思います。
それは、この文脈の中で最大の転換点であり、「Bの死」という出来事が始まった決定的な地点だからです。
しかし、こう考える人もいるのでは。
Bが死んだのは、Aが嫉妬したからだ。
Bが死んだのは、そもそもBが不倫なんかしたからだ。
実は、そうした考え方には落とし穴があります。
文脈と意図
ケース1と比べてみると、どうでしょう。
②きちんとした治療を受けられなかったから。
という選択肢に揺れる人もいるのではないでしょうか。
ケース1と2では、起きた出来事は同じです。
ただ、語られ方と、文脈が異なる。
ここから、読み手の合意は、文脈に依存して決められるということがわかります。
この例の中では、ケース1も2も、Aの心情には一言も触れていません。
つまり、「Aが嫉妬に狂った」というのは、表面上は書いていないこと、文脈の深層部分を読んでいることになります。
それは、テストでは×になってしまう。
僕も、日常生活でこうした事件を目の当たりにしたら、「嫉妬したんだろうな」と思います。
しかし、テストでは認められない。それは、万人の共通理解を得られないからです。
もしかしたら、Aは妻を愛していなかったかもしれない。むしろ憎んでいたかもしれない。だからこそ、妻が好意を寄せるBを殺し、悲しませようとしたのかもしれない。
これまたトンデモ話ですが、一方でそうした読みの可能性は誰にも否定できません。
確実に合意を形成するには、さらなる文脈が必要となります。
だから、限られた文脈の中で共通理解を得られる浅い層の部分でしか、テスト問題は語れない。
ただし、テストに限らずに言えば、多くの「なぜ」がこの深層部分を求めている。
⑥Aの逆鱗に触れたから。
⑦Aへの罪悪感から、生きる気力を失ったから。
⑧悪いことをすると罰が下るということを表現するため。
こうしたことを考えるのは楽しいし、考える力はつくと思います。
また、
「なぜBは殺されたのか」
と視点をA側に持っていくと、さらにこの傾向は顕著になるでしょう。
留意したいのは、そこには出題者の意図が少なからず入り込んでいるということです。
登場人物の心情を想像させたい。
出来事を時系列で把握させたい。
論理的に物事を説明させたい。
いろいろあると思いますが、国語で「出題者の意図を読み取れ」と言われるのは、ひとつはこういうことです。
問いは、あくまで出題者が読んだ文脈、想定する共通理解の中で作られる。
問いを立てる中で、多層的な「なぜ」の海に潜り込んでしまうかもしれないし、
どの視点から語るかを選ぶのも出題者次第。
そこで想定される解答が本当に「万人にとっての共通理解」であるという保証はどこにもないのです。
まとめ
・原因は無限後退する
・理由は共通理解を基盤とする
・文脈が多層的な読みに影響する
・出題者の意図に敏感になるべし
自戒の意味もこめて、「なぜ」の問いは慎重に扱っていきたいものです。
それは、言ってしまえばなんでも貫ける矛のようなもの。
なぜこの大学を選んだの?
なぜこの学部なの?
なぜその職業なの?
なぜそんなことがしたいの?
なぜ? なぜ?
すべてのテーゼを貫いた先に、いったい何が得られるのか。
なんでも防げる盾と出会わない限り、その矛は相手を貫き続ける。
それがいかに攻撃的なことであるか、矛を扱う者は自覚しなければならない。
あと、テストで「なぜ」を自由記述させるのは、かなり危険な試みだということは重ねて言いたい。
「この宇宙が存在するから」
という解答を〇とする気概があれば別ですが。
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