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「超国家主義の論理と心理」を読んで思ったこと

「超国家主義の論理と心理」は1946年に発表された丸山真男の論文です。丸山真男などと呼び捨てにするには恐れ多い学問の泰斗ですが、すでに歴史的な研究者の範疇に入っていると思いますので、「漱石」「鴎外」などと同様に「丸山」と表します。

久しぶりにこの論文を読んでみると、以前読んだ時とは違う箇所に目がとまります。

「ヨーロッパ近代国家はカール・シュミットがいうように、中性国家たることに1つの大きな特徴がある。換言すれば、それは真理とか道徳とかの内容的価値に関して中立的立場をとり、そうした価値の選択と判断はもっぱら他の社会的集団(例えば教会)乃至は個人の良心に委ね、国家主権の基礎をば、かかる内容的価値から捨象された純粋に形式的な法機構の上に置いているのである」

ヨーロッパで仕事をした経験からこれは腑に落ちます。会社という国家とは異なる集団でありますが、その会社を統治する際に、収益を上げるという会社の本質的な目的やその目的を達成するための会社の規律を、時に個人の価値観が超越することがありました。
会議で決めたことに対して、決めたその場にいたにもかかわらず、「自分は賛成と言っていない」「自分の価値基準に合わない」と言ってくることがあり、最初は面食らいました。

これがヨーロッパの個人主義か、と思ったものです。最近のニュースで、マスクの強制についてのデモが報道されていましたが、日本人には分かりにくい事象だと思います。自由という価値の選択権を否定するものには抵抗する、ということが根底にあります。

高速道路でオービスという自動取り締まりカメラがありますが、フランスではそのカメラのレンズを黒く塗ってしまうこともある、と聞き(本当かどうか確認していませんが)、さすが王様の首をとった国だと、と妙に納得したものです。

会社という集団の権限の基礎を成すものは、一字一句規定された「ルールベース」というより、原則を記載した「プリンシプルベース」に依拠し、そこには個人の価値観が判断の基準として這い込む余地を残しています。
この考え方は、真善美に照らして妥当か、という判断を行い、その判断の積み重ねが次の判断の基礎になっていくような感じです。

このように書くと前例主義のようですが、前例の前に個人の判断があるので、個人個人の判断の積み重ね、とも言えます。

丸山は教会と王権についても述べます。

「信仰と神学をめぐっての果てしない闘争はやがて各宗派をして自らの信条の政治的貫徹を断念せしめ、他方王権神授説をふりかざして自己の支配の内容的正当性を独占しようとした絶対君主も熾烈な抵抗に面して漸次その支配根拠を公的秩序の保持という外面的なものに移行せしめるの止むなきに至った」

ヨーロッパではキリスト教の教会が大きな存在になっていますが、その教会だけでなく絶対王権についても、さまざまな抵抗の末に、支配の真理的基礎を民主主義に席を譲ることになりました。
日本では民主主義は敗戦によって与えられたものであり、勝ち取ったものではなく、「民主主義」という言葉の重みがヨーロッパとは全く違うと思います。
2022年の今になっても、ヨーロッパ人が勝ち取った「民主主義」を彼らが自分たちで守ろうとするするセンチはなかなか理解できないでしょう。

会社を統治するために日本からきた者は、いずれは日本に帰国する「王様」と同じで、自分たちの価値観に沿わない「王様」に対しては面従腹背でやり過ごす、祖先が勝ち取った「自由」を侵害するものは「王様」でも許さない、反旗を翻す、ということになります。「王様」は形式的な権限しか有さず、彼らを動かすためには「信頼関係」が必要になります。

これを知らずに、権限があると思い込んで(外見的にはありますが)、その権限を振りかざすと痛い目にあうことになります。反旗を翻すだけなく、退社、サボタージュ、など。幸い、私はそのような目には遭いませんでしたが、なんとややこしい所にきたものだ、と思ったものです。

丸山はヨーロッパの対比として日本について述べます。

「ところが日本は明治以降の近代国家の形成過程に於いて嘗てこのような国家主権の技術的、中立的性格を表明しようとしなかった」

丸山は敗戦直後にこの論文を発表していますが、今の日本にも当てはまるのではないでしょうか。会社に置き換えると、社員は個人的価値観を押し殺して、権限規定として明記されていない不文律のことにも唯々諾々とします。多かれ少なかれどこの会社・集団でもあることでしょう。

丸山は学問・芸術についても述べます。

「国家が「国体」に於いて真善美の内容的価値を占有するところには、学問も芸術もそうした価値的実体への依存よりほかに存立しえない」

私はこれについては、戦後の日本では変容しているのではないか、と思います。国家が真善美を振りかざす時代ではなく、芸術家は自由に表現している、特に最近はインターネットで画壇を通さずとも個人が自作を発表する場が増えていますから、国家、あるいは何らかの集団が真善美を占有することはもはやあり得ないのではないでしょうか。

書いていて後半息切れしてしまいました。いろいろな経験を経てから昔読んだ本を読み返すと種々思いつくことがあり、面白いものです。

「現代政治の思想と行動 丸山真男 未来社」


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