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ケアしケアされ、それで世界は回っている。

3/26に、渋谷のパルコ劇場で『おとこたち』というミュージカルを観た。

4人の仲良しな男たちの20代から、80代で往生するまでの人生が描かれている。その中の1人、鈴木という男の人生が、特に刺さった。

鈴木は大学入試から就職まですべてストレート、製薬会社の営業職での成績を上げ、美人の妻と結婚。順風満帆に見えた彼の人生が、新人社員の飛び降り自殺を皮切りに、一人息子の反抗期、家庭内暴力と、不幸の坂を転げ落ちていく。

勝利を称えられ、勝ち続けるぞ、とジョッキをぶつけてきた。できない者は切り捨てる。だがそれができたのは、倒れる者が敵だったからこそ、なのではないか。倒れた者を見て見ぬふりができたのではないか。

倒れた者が身内だった場合。それも一人息子が、「できない」なんて、「負ける」なんていう事態は鈴木には我慢ならない。受け入れられない。

成功者のために、陰に追いやられた者に思いを馳せたことなどなかった鈴木は、競争社会で勝ち抜き、常に光の下を歩いてきた自分への疑問が初めて湧き上がる。

それでも男として、夫、父親として。認められるためには勝ち続けるしかない、負けを認めるような弱い男の姿など、誰にも見せられない。家族の前でさえ、鈴木は丸めた身体を解くことができない。

自分の生き方への疑念を打ち砕くように、妻や息子への家庭内暴力が始まる。

鈴木が本当に赦せなかったのは、できない息子でも、その息子を庇う妻でもなく、心の底では弱音を吐きたがっている、自分自身だったのではないか。

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燻製ちくわと燻製チョコレートケーキ(‼︎)
そして、行ってない富良野ワイン。

(1週間前の札幌行きは、東京から電車に乗りっぱなし、片道8時間の長旅だったので、本が2冊も読めた。
札幌ビール園近くのショッピングモールに入っていた紀伊國屋書店で、帰りのための本を入手した。)

この『傷を愛せるか』というエッセイの中の「弱さを抱えたままの強さ」の章に、「ヴァルネラビリティ」という言葉が出てくる。

医療現場はとくに、病気やけが、障害、老いといったヴァルネラビリティをあつかう領域である。だからこそ、医療文化はそのヴァルネラビリティを受け入れ、慈しみながら、同時にそれと闘いつづける必要がある。弱さを克服するのではなく、弱さを抱えたまま強くある可能性を求め続ける必要がある。

『傷を愛せるか』宮地尚子

「ヴァルネラビリティ」(vulnerability)とは、弱さ、脆弱性と訳されることが多い。また、攻撃誘発性とも。

著者の宮地尚子は、トラウマ研究の第一人者であり、精神科医として、DV被害者などの患者の臨床を行っている。「医療」と「人々の生活」がクロスしている、文化精神医学・医療人類学が専門である。あまり聞きなれない学問ではあるが、トラウマやジェンダー、エンパワメントなどがこの分野に含まれる。

病理学や精神医学など、人のケアをする過程では、この「弱さを抱えたまま強くある」ことを諦めてはいけないのだ、と宮地は書く。もちろん、医師である著者も感情を持つ人間であることには変わりがなく、心に傷を負った患者の話に耳を傾けることは、時に心身を消耗させる。彼女は、自分の中に降り積もった疲れや痛みを自覚し、家族の力を借りたりプールで泳いだりして癒し、また患者の待つ現場に舞い戻っていく、何度でも。

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読後もまだ消化できていなかったこの本を思い出した時、『おとこたち』の物語が描いているテーマが見えたような気がした。気付いてみると、『おとこたち』には、ありとあらゆる種類のヒーラー(癒す人)が出てくるのだ。

主人公の一人、山田が老後に入居する老人ホーム、働いていたコールセンターでのクレーム対応。アイドルを辞めた津川が入信した、あやしげな呪文で人の体に蓄積した悪いものを取り除く宗教。(アイドルという職業も、人を元気にするという意味で、癒し手だ)

精神科医こそ出てこないが、これだけ「癒し手」が出てくるのは偶然ではないだろう。

中でも、ヴァルネラビリティを体現している人物がいる。山田が通っていた風俗嬢・じゅんちゃんだ。ただ話をするだけで山田を緩めることができる彼女も、癒し手の中に数えられる。

彼女は風俗店を辞め、自転車で知らない街へと漕ぎだしていく。
夜の街の一つ一つの明かりが彼女にとっては、期待にも、また失敗するのではないかという恐れにも映る。「こわい」と口にできる"弱さ"こそが、彼女の強さなのだ。彼女の生命力にあふれる美しい声が、「弱さを抱えたままの強さ」なのだと思った。(この場面の歌は、本当に素晴らしかった。)

…慣れない渋谷の、ビルの谷間を這うように進んでいる時、襲ってきた敗北感は、勝った者、選ばれた者がこの文化を創ってきたのだという、街"自身"の矜持だったような気がする。…

みんなが癒しを求めている。ケアする人はいつかはケアされ、ケアの循環で世界は回っている。

若いころは不倫をして妻を泣かせた森田が、ガンを患った妻の看病をする。眠りながらうなされて、家族の名前を叫ぶ妻の寝言に、森田の名前だけが入っていないところがリアルでよかった。

この妻が、昼寝から醒めて韓流ドラマを見ながらせんべいを齧る姿に、ぐっときてしまった。夫の不倫相手との電話が、その後、”バリボー”のチームにある女同士の連帯の布石になっているようにも見えた。

一方で、鈴木の最期は悲惨だ。

これも医療にかかわる製薬会社の営業職に就いていた鈴木は、成績を上げるためなら賄賂もいとわない戦略で、出世道を昇り詰めていき、仲良し4人組の輪から外れていく。

ゲームセンターで喧嘩を吹っ掛けた少年たちに、死ぬまで殴られる。
あなたを支えたい、という妻の温もりに身を委ねることを自分に赦せていれば、あるいはあのような悲劇にはならなかったかもしれない。拳を振り上げ、老いた身体がぶつかって行ったのは、最後まで和解できなかった息子だろうか、「強さ」の幻想だろうか。

人は結局、人によってしか癒せない。早かれ遅かれ、ケアをされる日は来る。ミラーボールが走馬灯のように回り、場面は山田のいる老人ホームに戻る。

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