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日本人の「優しさ」は、本当の優しさなのか〜研究者や会社の人事にみる矛盾

最近、海外から日本を見て、考えることがある。

日本人の「直接、正直に思うことを伝えない文化って、本当の優しさなのだろうか?」ということ。

日本にいた高校時代くらいまでは、日本人の人をいたずらに傷つけない文化は、居心地が良いものだった。

そして、大学で海外に出ると、先生から生徒まで、直接、私に関するネガティブな事も平気で直接伝えてくるのに、正直傷ついたし、「なんてデリカシーのない文化なのか」と思ったこともある。

ただ、今は、その方が良かったと心から思える。

例えば、私は、生化学を学生時代に專攻していて、将来、大学院や博士課程にすすんで、基礎研究をやるのも良いと思っていた。

大学時代に院生に混ざって、基礎研究のチームに入れてもらっていた時に、大学院進学の相談を研究室の先生にしに行った。しかし、簡単な進路相談で、気軽に立ち寄ったのだが、衝撃的なことを言われた。

「君は、何を目的に大学院に行くんだい?適当な気持ちで、研究ができるほど、基礎研究の世界は甘くない」

「米国では、一体何人の人間が、大学院に進んで、何人の人が博士課程に残ることができ、何人の人が生涯研究職で生きていけるか知っているかい?」

「それに、今は基礎研究費が大幅に削減されて、特に君みたいな留学生や海外からの研究者は軒並み席が無くなり、自分の友人も何人も自国に帰ってしまった」

「これが何を意味するか知ってるかい?研究が有名な大学の学費は決して安くない。学費と年齢を重ねるリスクを考えたことがあるかい?」

「僕には、君の学部時代の成績を見る限り、その覚悟があるとは思えない。もう一度よく考えてごらん」

少し立ち寄って話に行っただけで、ここまで説得されるとは思わなかったし、留学生という第2外国語の生徒が、オールAを取るなんて、至難の技で、なぜここまで言われるのかと戸惑ったものだが、今になると納得できる。

大学院や博士課程に残った知り合いは、たとえ留学生だったとしても、ありえないくらい勉強をし、限りなくオールAに近い成績を残していた人物だけで、あとは見事にドロップアウトしてしまっている。

今思えば、研究室の先生は、あとで取り返しのつかない人生にならないように、最初から厳しい世界であることを警告していたのだということ。

そして、アメリカでは、大学の入学の間口は広いが、卒業までに半数近く絞られ、大学院入学はさらに狭い間口になり、卒業も難しい。博士課程などに入ったり、出るとなると、かなりの世界的有名な論文に投稿できるレベルでないと無理なのだ。

つまり、「STAP細胞ありまーす」のような人が、間違っても博士課程を卒業できることは無いし、研究者が増えすぎて、仕事が無いなんてこともあまり無い(最近は、米国での研究費削減で、一部はあり)。

シビアな事を直接言われることは、つらい現実なのだが、そこにいるスペシャリストだからこそわかる世界があり、それをしっかり伝えて、向いていないなら、早い段階で諦めさせることは、ある意味「優しさ」だと思う。

日本のように、頑張っている人には、たとえ向いていなさそうでも、学業や仕事の席を守ってあげることは、短期的には「優しい」のかもしれないが、本人が本来向いているだろう職種に行く機会を無くし、50代くらいまで生殺しにしておいて、本当に会社がやばくなったら、切るという方が、かなり酷い。

選択肢を広げるのはいいことだが、会社や研究などの場所において、選択肢を絞らせる機会を与えるのも「優しさ」ではないだろうか。

私も、もしあのまま基礎研究に身を委ねてしがみついていたなら、今の自分はない。選択肢が狭まることで、流れていき、やがて天職が見つかることもある。そして、それは、若ければ若いほどいい。


嬉しいです^^ 美味しいコーヒーと一緒に今後の医療談義をしたいなと思います。