見出し画像

[008]あのときの分断がまた


各行政からの休業要請はありながらも、休業補償にはじまる補償面については、いまいちパッとするものが見当たらない現在、富士吉田市が市民全員に1万円を給付するといった記事が日経新聞に掲載されていたことを、思い出した。

富士吉田市の人口は4.87万人だが、ざっと計算したところ、事務費などの諸経費を含めれば、給付だけでおよそ5億円が飛ぶ計算になる。

国や東京都、東京都23区の特別区などにとっては5億円はさほど大きな数字ではないと思うが、富士吉田市の平成30年度決算(下記参照)によれば、一般会計の歳入額は225億円と表記されていて、(財政にはあまり明るくないため、特別会計も入れた方がいいのか迷ったが、)単純計算で市民への現金給付だけで歳入の2.2%をもっていかれる計算だった。
コロナ対策全般ではなく、市民への現金給付だけで、である。

人口が5万人に満たない地方行政にとってはなかなか痛い数字だろうが、市民や企業、彼らを取り巻く雇用の現況を考えての苦渋の選択だったのだろうと思う。


手元に届くその1万円を「嬉しい」と捉えるか、「そこまで嬉しくない」と捉えるかは、それぞれの生活事情によって異なってくるが、少なくとも富士吉田市民であれば、1万円札1枚は手に入る。
それが、町割りをひとつふたつ隔てた別の市町村地域だと、当たり前だが、1万円はもらえない。


この構図、何かに似ている―。

そう感じ、思い当たったのが「震災補償」だった。


東日本大震災のときは、地震本体からの被害、津波による被害、津波火災による被害…など、住居・家屋の罹災原因や被災状況は多様だった。

その中でも、被害が甚大である地域とそうでもない地域が隣接している場合、地域内で半壊の家屋と全壊の家屋とが共存している場合など、被災レベルのそういったちょっとした違いによって、行政側からの補償額、補填額にえらい違いが出てしまったことで、せっかく築き上げた町内会や寄合といったコミュニティーが分離し、切除され、失われていった…という報道や話は、この9年の間で一度は目にしたことがあるかもしれない。


私は、今回のコロナ禍を取り巻く救済措置の地域差によって、同様のケースが見受けられるようになる(そろそろ表面化し始める)のではないかと強く危惧している。

また、今回においては、例えば「レストランなら補償の対象内だけど、居酒屋は補償の対象外です」とか、「そもそも休業要請の対象業種ではないため休業してもそれは自主的な休業のため補償はありません」といった、地域差だけでなく業種別、職種別…といったようにとにかく色々な”分岐”が無数に存在している。

そのため、今回の休業要請、そして以降の休業補償によって、せっかく築き上げてきた商店会のコミュニティーや企業連携・連帯の輪などが崩れてしまうのではないかと懸念している。

浪人時代によく行った店、大学時代にお世話になった飲食店、常連客としていま行く店……平時より苦しんでいない飲食店はおおよそ皆無と推察すると、本当に心苦しくなる。


当時、東日本大震災とは直接は関係がない地域の人たちも、今回に関しては個人や企業の境なく、そのほぼ全員が「当事者(被災者)」となっており、直接的、物的な被害はなくても9年前の震災が都市部を中心として起きたような、そんな様相を呈しているといって差し支えない。

備えあれば患いなし、明日は我が身、と学んできた人たちから、余裕を持った行動ができるのは、幼少期の避難訓練で死ぬほど聞かされ学んできたはずであるが、もし忘れていたならば、震災で起きた”分断”がまた起きぬよう、非常に近い過去の経験をもう一度思い出し、もしくは、改めて知り、まさにいま、ゆとりをもって自分たちを支えてくれる小さなコミュニティーの破滅を避けるときではないだろうか。

中越、東北、熊本をはじめとして、日本各地に点在するようになってしまった被災地域(地震に限りません)で起きてきた、小さくも大きな”分断”がいま再び起きれば、震災からいったい何を学んだのか、という話になり兼ねない。


そのための政治だろう、という意見は重々承知。一国民に今日できるコトは限られてはいるがしかし、こういうときだからこそ、気持ち、心構え、気遣い……そういった他者への些細な施しは、自分が想像しているよりもはるかに多くの人たちの気持ちや生活、そして、命を救うということを、落ち着いて、飲み込むことがいまは大切かもしれない

なぜなら、ゆとりがまだあると口に出して言えるこの時期を逃せば、他者への気遣いに、時間も、体力も、そして心も割けなくなってしまうと感じているからに他ならないからである。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?