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[014-1]教育と公共政策の狭間で(上)


こんにちは、まっちゃんです。

私自身、SNSの誹謗中傷により被害に遭ってしまった方を思って同じく加害者を叩いている人も、同じ穴の狢であることを忘れてはいけないと感じる。

戦争や紛争を「血で血を洗う」と例えることがあるが、実はSNSも毎日のように「血で血を洗」ってしかいないように思う。
論議は次第に熱を帯びていき、気づけば批判に批判を重ね、論点が矮小化し、結局は枝葉末節、枝葉の先において、多くの人を傷つけながら何の解決も図られないまま、立ち消えになる。

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「SNSでいじめるようなそんなやつは法で晒すべきだ!」という意見については、「そんなやつ」についての定義をどうするのか、その定義をもって当該判断は誰が責任をもって行うのか……などもあるが、「法で晒す」ことそれ自体がこういった事態を再び招く温床になり得るのではないか、と危惧する。

「法で晒す」とカンタンに発信できるが故の論理の甘さ(怖さ)は大いにあると思うが、本当は考える頭を持っている人がほとんどで、本来はこういった論理にはならないはず、と私は思っている。


「法で晒す」というのはまさに―あくまで私から見れば―加害者への「武力行使」を国に認可してもらおうとしているようにすら見え、この問題を根本的に本当に解決しようと思っているか甚だ疑問に感じている。それは、「法で晒す」という行為が「血で血を洗」ってしかいないと感じているからである。

被害者への保護は当然だが、加害者への対応がそういったもので本当に正しいのかといささか疑問に思わざるを得ない。


ユダヤ人哲学者のハンナ・アーレント(1906-1975)は、1961年のホロコーストに加担したアイヒマンの裁判で、アイヒマンを「怪物」とカテゴライズしたい大衆に迎合することをせず、ナチのような悪は自分たちの中にもあるとして、悪の陳腐さについて研究を行った人である。
彼女は、アイヒマンを「彼は普通の役人だった」と後述したことで、同胞から「裏切り者」とまで言われ、親友からも軽蔑されていった。

この記事における引用の意図と、アーレントが言及したい哲学は、おそらく一部異なっていると思うが、引用の意図を補完してくれたのが、最近話題になっているドイツ人哲学者のマルクス・ガブリエル(1980-)の言葉であった。

彼は、NHKのドキュメンタリー番組「欲望の時代の哲学2020 マルクス・ガブリエル NY思索ドキュメント」において、取材中にトンネル内でパニック状態を引き起こしてしまったタクシードライバーの精神状態を指して、「私はあなただったかもしれない」「私は反対側にいることもできる」と、もしかしたらドライバーの彼のような状態に陥っていたのは私だったのかも、と想像して考えることが、倫理の基本的なポイントであると述べていた。


そうなると、論議で批判に批判を重ねるのはあまり意味がなく、批判に武力行使(SNSも含む)で解決を図るというより、相手との交渉や合意形成、課題の解決を軸に意見と情報の共有をしていかなければならないと強く感じた。

「暴力をふるってはいけません」という自明の理を教えられてこなかったのか、学んでこなかったのか、それとも、忘れてしまったのか。
そのどれであっても、SNSの時代に生きる私たちが記憶しておかなければならないのは、「誰かを傷つけている可能性は、誰にだってある」ということであり、ツイートボタンを押すかどうかの”分岐点”に際し、そういうことを頭の片隅に置けているかどうかにかかっているということなのだと思う。


難しい理屈はいらないかわりに、良心的なアクションを起こすのが非常に難しい問題のように思えた。


(つづく)


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