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「NIGO展」からKENZOへ―「KENZO FALL-WINTER 2023 RUNWAY SHOW」が示す「他者化」のまなざしの交差点(上)

 …アメリカ的でない日本がどこにあるか。アメリカを離れて日本が存在するか。私は断言する、アメリカが世界であるばかりではない。今日は日本もまたアメリカのほかの何ものでもなくなった…。

室伏高信『アメリカ 其経済と文明』先進社、1929。

はじめに―これは「NIGO展」であったか?

 昨年の9月14日から11月13日にかけて、文化学園服装博物館にて開催された未来は過去にある”THE FUTURE IS IN THE PAST” NIGO's VINTAGE ARCHIVE展において、NIGOは自らの輝かしい経歴を彩ってきた様々なブランドの「アーカイブ」を展示するのではなく、「自分にとって師であり、友でもあるヴィンテージ※2」のみを展示することを選んだ。その動機としてNIGOが挙げているのは高田賢三である。

昨年LVMH傘下のKENZOのアーティスティックディレクターに就任させて頂き、
文化服装学院の大先輩である高田賢三氏が、文化の学生さん達と積極的に交流をされていたことを知り、
これからのファッション業界を背負って立つ若者の為に「自分にも何か出来ることはないか」と、
考えたことが今回の開催のキッカケとなりました。

原田学『未来は過去にある "THE  FUTURE IN THE PAST" NIGO's VINTAGE ARCHIVE 展』学校法人 文化学園、2022、2頁。

 その中で注目すべき事実は、「NIGO展」において、「師」であり「友」でもあるヴィンテージの性質的偏りについてである。つまり、ここで「今まで殆どの人の目に触れることなく、自分の参考書として所有※1」してきたヴィンテージが、事実上アメリカのものに限られているという事実である。
 管見の限り、原田『未来は過去にある』において、生産国がアメリカでない可能性があるものは54頁の「NORMANDY」スウェットや※2、86頁のスカジャンに限られ※3、その記号的な意味内容(ここでは明確に分割することの不可能性を措いて考える、後述)がアメリカ的な意匠から逸脱していると考えられるものは、12頁の所謂スノーフレークパターンのスウェット、87頁の「THE FAR EAST」シリーズのCAMPUSのジャケットとハーフスリーブシャツに限られる。
 記憶が正しければ、「NIGO展」において展示されていたヴィンテージの中で『未来は過去にある』に取り上げられていないものは多数存在するが、それらの中で上記二つの例外に該当するものは、大枠の「アメリカン・ヴィンテージ」の中で捉えられているものであった。

 「これからのファッション業界を背負って立つ若者の為に」NIGOが考えた「出来ること」が、大枠の「アメリカン・ヴィンテージ」の「コレクション」を展示することであったという事実―その目的が「多くの学生さんをはじめ国内外のファッション好きの方々に見て頂くことで、何かのヒントや参考に※1」なることであるという点を含めて―は、どのように捉えることができるのか? なぜ「ヴィンテージ」の中にユーロ・ヴィンテージやジャパニーズ・ヴィンテージが含まれていないのかという疑問は適切なものである。それに対する直接的な回答を本稿は用意することはできないが、その理由を否定神学的に浮き彫りにすることは可能であろう。

 本稿の目的は、そういったNIGOの道程を、「KENZO FALL-WINTER 2023 RUNWAY SHOW」を補助線として素描し、その素描の先に浮上する、「アメリカン・ヴィンテージ」の日本における特殊な位置を確認しすることである。その先に、"KENZO"や「アメリカン・ヴィンテージ」、ひいては「日本」「アメリカ」が絡み合う「他者化」のまなざしの交差点とも呼ぶべき地平が浮かび上がることとなった。
 そのため、本稿では、1章で「KENZO FALL-WINTER 2023 RUNWAY SHOW」の、公式の概要欄を通じた「まなざし」の相違、私たちの「まなざし」を形作ってきた「日本」と「アメリカ」の間のまなざしの不均等な構造を明らかにしつつ、2章で「日本」の「現代」における「服飾」の課題を確認しつつ、その課題を乗り越える上でコレクションでNIGOが試みた実践を、「アメリカン・ヴィンテージ」を軸としながら読解し、「NIGO展」におけるNIGOの試みを再帰的に捉え返す。3章で、高田賢三とヴィヴィアン・ウエストウッドの比較検討を通じて、NIGOの実践を"KENZO"というメゾンの「家督相続」の問題系から論じる。結部で、それらを通じて見えた「他者化」のまなざしの交差点としての「KENZO FALL-WINTER 2023 RUNWAY SHOW」について論じる。

  • ※2 『未来は過去にある』2頁。

  • ※3 アメリカンなカレッジスウェットでありながら、その文字が「NORMANDY」であることにより取り上げた。当然、ノルマンディーを故郷にもつフランス人移民がアメリカで作った可能性などは否定できない。

  • ※4 「スカジャン」が「横須賀ジャンパー」に由来することは有名な話である。が、生産国の違いが「アメリカ的」なる意匠の否定にはならないことはここにおいても強調しておく必要があろう。2章「KENZO FALL-WINTER 2023 RUNWAY SHOW」のなかの「アメリカン・ヴィンテージ」―「ミリタリー」に着目して にて詳述。

浸透した「他者」―「KENZO FALL-WINTER 2023 RUNWAY SHOW」が示す「他者化」の交差点

スウィンギング・ロンドン?―解読不能な意匠

 まずは以下の動画をご覧いただきたい。2023年の1月24日、KENZO公式アカウントによりYouTube上に公開された「KENZO FALL-WINTER 2023 RUNWAY SHOW(Full Program)」の動画である。

 ここからは、上記動画の概要欄を通じて、コレクションの位置付けを確認するところからはじめよう。引用する。

原文
For the KENZO Fall-Winter 2023 Women’s and Men’s Show, Artistic Director Nigo elaborates on both the similarities and differences between his own world and the legacy of Kenzo Takada.

The collection is simultaneously an exploration of his longstanding fascination with the interaction between British, American and Japanese street culture. Refining his overarching vision for the Maison, the collection builds on the archival backbone of his practice while introducing influences close to his own heart. In the Salle Pleyel, the 1966 Quartet plays string renditions of The Beatles in a reflection of the genre-spanning eclecticism of a collection that begins in the Swinging Sixties. A foundational era for Nigo, who was born in 1970, a vast part of his extensive archives of vintage clothes are devoted to the rocker and mod wardrobes of the time.

The spirit evolves into a study of Great British country attire expressed in a collaboration with Hunter. It inevitably echoes the legacy of Dame Vivienne Westwood, whose influence has been a constant in the career of Nigo. The formative elements are infused with the joie de vivre of Kenzo Takada’s work in the 1980s and underpinned by the conversation between traditional Japanese construction and authentic American workwear that supports Nigo’s structural framework at KENZO.

和訳(筆者による、一部DeepLを参照)
KENZOの2023年のウィメンズ、メンズショーに向けて、アーティスティック・ディレクターであるNIGOは彼自身の世界と高田賢三のレガシーの間の同一性と差異の双方について詳述する。

このコレクションは、同時に、イギリス、アメリカ、そして日本のストリートカルチャーの間の相互作用への、NIGOの積年の魅惑への一つの探求でもある。このコレクションは、メゾン(KENZO)に対する透徹するヴィジョンを洗練させながら、NIGOの実践のアーカイブ探求的バックボーンに基づきながら、NIGOの心性に近い影響を導入している。サル・プレイエルにおいて、スウィンギング・ロンドンに始まるジャンル横断的折衷主義を反映したビートルズのストリングでの解釈を含んだ演奏を行う。1970年に生まれたNIGOにとっての基礎となる年代であり、NIGOの広大なヴィンテージ古着のアーカイブの多くは、当時のロッカーズやモッズのワードローブに費やされている。

その精神はハンターとのコラボレーションの中で表現されたイギリスの衣装への研究へと発展していく。これは必然的に、NIGOのキャリアに継続的に影響を与え続けたヴィヴィアン・ウエストウッドのレガシーと共振する。1980年代の高田賢三の仕事のもつ生への喜びが形成要素に注ぎ込まれ、さらにそれは、NIGOのKENZOにおける構造的フレームワークを支える伝統的日本の構造とオーセンティックなアメリカン・ワークウェアとの抱擁に下支えされている。

「KENZO FALL-WINTER 2023 RUNWAY SHOW(Full Program)」概要欄より抜粋。

 公式見解によれば、1966カルテットが演奏するthe Beatlesの"Help"を通じて、スウィンギング・ロンドンを始まりとしてショーは展開され、イギリス、アメリカ、そして日本のストリートカルチャーに基づくルックが展開されている、とある。そして60-70年代はNIGOにとって基礎となる年代であり、そのヴィンテージ・アーカイブの多くが、当時のロッカーズやモッズのワードローブに費やされている、という。そしてランウェイの多くを彩るHunterとのコラボレーションの靴を中心に、このコレクションはイギリスの衣装への研究へとつながる、と。換言すれば、このコレクションはイギリス的なる意匠を基調とし、「伝統的日本」と「アメリカン・ワークウェア」がそれを下支えする方向で形作られているということである。

 ここに錯誤を感じるのは自然なことであろう。NIGOの膨大なワードローブの内実がどのようになっているかを詳述することは本稿の趣旨からそれるものの、「NIGO展」において取り上げられていたものは、「オーセンティックなアメリカン・ワークウェア」を中心とするアメリカン・ヴィンテージ以外の何者でもないからである※1。
 また、このコレクションが60-70年代をそのデザインソースとして用いているという見解も疑問が残る。イギリス的な意匠への還元主義的見方を振り切ったとしても、このコレクションがそういった年代意識へのリバイバル精神のみで形作られていると言えるだろうか。
 他にも、ヴィヴィアン・ウエストウッドの「レガシー」との共振や「伝統的日本の構造(traditional Japanese construction)」なるものがどのように表現されているかといった点で疑問は残る。私見でしかないが、UNDERCOVERの「蜘蛛巣城」コレクションや、ISSEY MIYAKEらに代表される「伝統的日本の構造(ネガティブにもポジティブにも捉えうる)」に多くを負っている印象を、本稿執筆までに複数回視聴したが一度たりとも感じることはなかった。何かを論ずる上でその論拠を個人の印象論に還元することは危険であるが、違和感を抱く契機が自らの直感であるならば、それに依って論をすすめることは問題だとは言えまい(その論の先に印象がない限りにおいて)。

 ここで強調しておくべきことは明白である。すなわち、西洋人的まなざしから見たショーと、私たちからまなざされるショーの内実が相違しているという可能性があること。加えて、その相違の中に、日本における服飾感覚のガラパゴス性と、その発露としての「アメリカン・ヴィンテージ」の場所を確認する間隙が生じるということ。
 次項からは、コレクションの具体的なルックについて総覧し、これらの論点をより明確に位置づける。

  • ※1 モッズやロッカーズがイギリスで起こったファッション・スタイルだから該当しないわけではないことを強調しておこう。モッズはM-51パーカーを着用し、ロッカーズはアメリカにおけるWW2の復員兵達により先導されたバイカーズというファッション・スタイルに強い影響を受けている(そしてモッズがロッカーズのルーディーな振る舞いから逆照射的に生まれたムーブメントだということも)。その点で、彼らをイギリスという文化に還元すること事態が拙速であるし、彼らが大小アメリカ文化からの影響を受けているとしても、NIGOのかかえるアメリカ古着の膨大なフォーマットを彼らのワードローブという過小なモチーフに還元することもまた安直である。

「誤読」はどこから生じたか―ルックを通じて

世界各国で最も聴かれているクラシック・ロックアーティスト。データ元はYoutubeのビデオ音楽チャートより。日本のみビートルズである。

 上記の調査は一つの事実を明らかにしている。世界の他国と比べたときの、ビートルズの位置付けの特異さである。また、他国での一位のアーティストの視聴回数と比較して、日本は11位につけている。当然、諸外国の人口は均等ではなく、またYouTubeの視聴環境なども国ごとに異なり、加えてストリーミングをはじめとする代替聴取方法にも差が生ずることは容易に想定できるため、一概にこのデータのみをもって比較文化論的テーゼを定立しようとするものではない。しかしながら、日本におけるビートルズの受容、そして公式概要に持ち出された「スウィンギング・ロンドン」と、NIGOのクリエイティビティの基盤としての60-70年代という見立ての間に感じる隔たりを、ここに立脚して論ずることは不可能でないように感じる。つまり、根本的にショーで提示されたものを読み取るまなざしが異なっており、それにより読み違えが生じているのではないか、という点である。

1
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 たしかにこれらのルックからはスウィンギング・ロンドン的、60年代ロンドンの意匠をふんだんに感じることができる。とはいっても、安直にリバイバルとして称揚することができるような手法によってではない。1のルックにおいて用いられているノバチェックのようなデザインのツーピースは、どことなくイギリス的意匠を醸しながらもそのシルエットは徹底的にアメリカ的である。モッズ的な細いシルエットの仕立てではなく、わたりには大きなゆとりが見られる。三つボタンではあるものの、ジャケットのポケットも左右で対となる※5。だが、確かに防止や胸のニットに見られるデザインは、どことなくthe Whoを想起させる赤・白・青で構成されていることからも、モッズ的、スウィンギング・ロンドン的意匠が組み込まれていることは否定できない事実として存在している。

 2のルックは、タータンチェック的テキスタイルをベースに、フリルをパイピングのように用いたワンピースと、その女性的印象に相対するように着用されているスラックスをもとに構成されている。ワンピースのマリー・クワント的ミニ・スタイル性、スウィンギング・ロンドン的性質は強調する必要があるものの、クワントが試みた快活な女性像を提示するミニ・スタイルとは根本的に異なるものであるということは強調しておく必要があることは言を俟たない。というのも、(ツィッギーを想像してもらえば容易にわかることだが)フリル的な女性性※6を意図的に排除するところにクワントのクリエイティビティの新規性は存していたからである。そういった含みも飲み込んだ上でのスラックスなのであろうか。

 上記2ルックを通じた総論として述べたいものは、スウィンギング・ロンドン的な一つのムーブメントをもとに今回のコレクションを論じることで看過している陥穽についてである。ビートルズ、ザ・フー、ノバチェック、タータンチェック、ミニスタイル…そういった連想ゲームでファッションを語るのは行うに易いことであることは否定できないが、安易な結論に飛びつく前に、他のルックに目を向けて見たときに、浮上するリアリティが存在する。

  • ※5 モッズは戦後ロンドンに大陸から移住してきたユダヤ人のテーラーに仕立ててもらったスーツを着用したことは有名であるが、その中でもサイドベンツ、ダーツ、ポケット数、ボタン数に至るまで細かい取り決めがあり、それが閉鎖的なスノビッシュ・マチョイスト集団としてのモッズを形作っていた。

  • ※6 この点はLuke Leitchも論じている。以下引用と和訳。ルックを概観した上で、フェミニンな方向性への意識の薄さを見れば、コレクションをスウィンギング・ロンドンに還元することの捨象性に気づくものだと感じるが。スウィンギング・ロンドンの色彩性、装飾性、奔放性、脱ジェンダー性を少しでも思い出せれば気づくことである。

原文
The only criticism was that—perhaps not unlike Kenzo himself—Nigo’s mastery of the feminine aspect seemed unsure: it was either menswear-sourced templates or frills and shirring: reductive.

和訳(筆者による)
唯一の批判は(この点は高田賢三と類似していないようであるが)、NIGOの女性性の側面への統制は不確かなものに見える: それはメンズウェアをソースとしたテンプレートかフリル、シャーリングのいずれかに還元されるものであった。

Luke Leitchによるvogue runwayの記事

 さて、ここまでの概観を通じて誤読の一端は垣間見えたのではないだろうか。徹底的にこれらの表層的理解を打ち砕くために、次項でヴィヴィアン・ウエストウッドと高田賢三の比較検討を通じてこのコレクションの価値を生み出している側面について論じることとするが、取り急ぎ他ルックに対する言及を続けることとしよう。

3

 日本にお住まいの読者の皆様はthe Beatlesとこのルックのアウターを見た瞬間にデザインソースが明白なものになると思われるが、言うまでもなくこの3のルックにおいて想起されるのは、「日本的伝統の構造(traditional Japanese construction)」などではなく、ビートルズ来日の時のハッピであろう。

JALの機内サービスのハッピを着用する四人。1966年の出来事。

 ビートルズの来日は、日本人が戦後認識しはじめていた他者からまなざされる自己像を、ひとつ決定的なものにした出来事であった。佐藤嘉明は、『若者文化史』において、その衝撃を物語っている。

 [引用者注: 1966年]六月、ビートルズが来日し、文化的太平の夢を半ば覚ました。東京武道館でのコンサートは超満員で、テレビで同時放送された。若者文化にとって記念すべきこの一大インパクトは、空前絶後のことであった。(中略)。
 その後の歴史を考えあわせると、このビートルズの来日が日本の若者とそのリーダーたちに与えた影響力からして、六六年を「若者文化革命元年」と読んでも、オーバーではないだろう。いや、「ビートルズ時代」といっても過言ではない。五○年代の若者が表現しえなかった内なる「怒り」を、歌うというより大声で「叫ん」だ。(中略)全く新しい若者時代の到来を、百万語をもっても表現しえないものを、あまり上手とはいえない歌で表現した。
 刻々と変化していった彼らの歌のみならず、ファッションも、世界の若者の共感を呼んだ。その影響は、単に音楽やファッションにとどまらず、大人も含め、好みや意識、信条、モラル……を変える大きな力になった。古いピラミッド社会を変動させ、ファッション化時代へと誘った黎明の歌か、はたまた、鎮魂の歌になった。

佐藤嘉明『若者文化史』源流社、1997年、124頁。

 "Help"、ハッピ、ビートルズ―ここにおいてNIGOが表現しているまなざしの輪郭がようやく明らかになってくる。つまり、根本的にこのコレクションにおけるイギリス、アメリカへのまなざしは、日本文化の鬼子として育ったNIGOのまなざしを経由している。90年代、シミュレーショニズム、文化表象の越境的利用…そういった表層的理解(この点については2章、「悪い場所」としての「日本・現代」?―椹木野衣『日本・現代・美術』を通じてで詳述する)でデザイナーを捉えるファション・ライターの悪癖は、いくら強調してもし足りないものである。安直にこれらのルックを諸外国の文化表象の混交的表現として解釈する西洋中心主義的見方(というよりも観察眼、見識のなさと指摘したほうがよいか)が、その表現の背後に潜む重要な意義、挑戦、勇気ある越境を漂白し、「モード」の「ゲーム」の操作可能な対象として変質させる。こんなことを大仰に論じなければならないことに辟易するが、「日本的伝統の構造(traditional Japanese construction)」「アメリカン・ワークウェア」「スウィンギング・ロンドン」といった個別具体的な文化がNIGOの想像力をもってクロスカルチュラルにミックスした、などというものではなく、このコレクション自体が一つの国のまなざしを反映しているということ、そのまなざしを経由してコレクションは生み出されているということは重ね重ね論証し解き明かしていく必要がある。

 本論に戻ろう。ルック3のインナーについて目を移すと、NIGOのまなざしはより明白なものとなる。

4

  3、4のルックのトップスは、ボタン数やカラー・ラペルの有無、何よりテキスタイルの相違など、大小の差異があるものの、大まかに言えば類似する、着流しというデザインソースで構成されていることは明白であろう。4のルックをはじめとして本コレクションにおいては袴やモンペをデザインソースとしていると思しきボトムスが見受けられることも強調しておこう。"Yohji Yamamoto"をはじめとして(高田賢三もそうであったが)、和装を洋装に変化させることそのものがクリエイティブだった時代は50年前に過ぎ去っている。その点で、3、4のルックが「日本的伝統の構造」の反映である限りにおいてはなんら新規性がない試みでしかないし、「日本人」が「パリ」で普段袖を通す機会も殆どない「伝統」を持ち出して独自性をアピールしてそれを「西洋人」が称賛するといったオリエンタリズムに裏打ちされた構造的不均衡をもとに「非西洋」をまなざす「ショー」であるならば、存続する価値などないということは論ずる必要もないだろう。

5

 当該コレクションで私が最も興味深く鑑賞したのが5のルックにおけるケープ・ポンチョ(と名指すべきかも微妙であるが)である。varsity jacketをもろにデザイン・ソースとして置きつつ、そのパターンは大胆にも変更されている。オールドライクなフェルト(?)のワッペンで「70」というKENZOの創業年を象徴的にあらわしている。
 Veristy jacketは、アメリカの大学の体育会系の部活で着用されていたアイテムであり、その卒業年度を胸元にレタリングし、class of ○○としての矜持のようなものを誇示するものであるが、もともとは大学生用のアイテムであったものを、アメリカに対する憧憬をもとに(VANなどのアイビー文化にも後押しされ)その美的側面から日本では着用されるようになったアイテムである。その根源にあるのは日本からのまなざしにより大学生用ジャケットがファッションアイテムとして転用されたという歴史とそれを裏付ける圧倒的なまでの憧憬であり、まさにそういった(いい意味での)取り違え、混同が、このアイテムの面白さを形作っていることは強調しておく必要があるだろう。単にアメリカ的である、などといった表層的な分析をここで開陳するのは早計であるということが言えるだろう。まさにそうした転倒が、卒業年度と創業年の意味のズレを生じさせ、それがアイコニックな形で存在するというNIGOの想像力の土台を形づくっているのである。
 そしてこのアイテムがケープ・ポンチョ的なパターンで作られているという点にも着目する必要がある。次に示す6のルックを通じて、3から6のルックに通底する、戦後日本が獲得したまなざしと、それに裏打ちされた本コレクションの価値を明らかにする。

6

 同じテキスタイルを用いてフライトキャップからトップス、下部まで表現されたルックである。アイテムを直接確認したわけではないのでどのような構造になっているかは確かではないが、着流しのような形で一枚の布で襟、袖、下部にわたるコート部(比翼によりボタンが不可視化され、着流しのような印象を形づくっている?)と、ベスト部で分割されており、それをスタイリングしたルックであると想定できる。
 このルックで特筆すべき点は2つある。1つは、トップスの前身頃、後身頃はベストをデザインソースとしつつ、それをコートに重ねて着用できるほどに身幅を大きくしており、それによりルックではエンジニアジャケット然とした概観を呈しているという点である。

50s HEADLIGHTのエンジニアジャケット。大きい身幅、太いアームホール、デニム生地やヒッコリーというタフな外観に、襟なしの短丈など、他アイテムにない特徴を兼ね備えており、玄人好みのアイテムとして目玉商品としてヴィンテージ古着屋においては扱われるアイテムである。本コレクションにおいて他複数エンジニアジャケットをデザインソースとしたトップスが確認できる。
6の背部。キュプラ調の外観を見ればベストであることが印象付けられる。

 スーツは裏地に金をかけるといった「ダンディズム」、つまり明示的な服装の違いが身分や階級を表すものでなくなったという歴史的断層のもとに生じた細部に宿る差異のゲームを明確に論じたのはフィリップ・ペローやロラン・バルトらであった。

 …もはや衣服をざっと見ただけでその意味を汲み取ることは不可能になってしまったからである。今やニュアンスと西部の世界においてこそすべてが行われ、派生的な意味作用―これが以後唯一の重要な意味作用となる―が増殖するのである。
 …他から区別され、自分を他とは違っていると見せるためにはもはや生まれがよくて金持ちであるだけでは十分でなく、何よりも生きる術を知ることと、正しい作法や服装のしきたりの奥義、その微妙なニュアンスに満ちた宇宙を究めることが必要なのである。

ペロー・フィリップ著、大矢タカヤス訳『衣服のアルケオロジー』ちくま学芸文庫、2022、166-167頁。

 …卓越した男、それは嵩がはるものではないが、小さくても強力な力を発揮するような手段をもちいて一般大衆から区別された男である。一方で、彼は自分と同等の者たちだけに認められようと思い、また一方で、この認知は主にさまざまな細部にかかっているので、時代の課した制服にたいし、卓越した男は、幾つかのさりげない(目立たず、それでいて他とは区別のつく)記号を加えたといってもよいだろう。その記号はもはや公然たる身分を示す見世物的記号ではなく、ひたすら暗黙の記号である。事実、卓越性は半ば秘密の道をとおって衣服の記号性に参与するのだ。というのも、一方で、卓越性を読みとってもらおうとねらう集団は小規模になり、他方で、この読みとりに必要な記号は数少なく、しかも新しい衣服言語に多少なりとも精通していなければわかりにくいものだからである。

バルト・ロラン著、山田登世子訳「ダンディズムとモード」『ロラン・バルト モード論集』、ちくま学芸文庫、2011、38-39頁。

 ネクタイ、スーツの裏地、ベストの裏地、靴のバックル、ベルト、ボタン、靴下、靴のアウトソールといったとりとめもない細部、むしろそういった細部への造詣の深さ、理解の度合いが、ブルジョワ革命以降のフランス・モードにおいては差異の表示機能として機能する。その文化が21世紀に生きる私たちにも様々な形で生き残っていることは胸に手を当ててみればすぐにわかることであるが、一方でそういった細部での差異表示ゲームを転倒させ、隠されるべき細部をむしろ明示的に表現するゲームも生じている。6のルックに見られるベストのレイヤーの逆転、2010年代を彩ったバーバリーチェック、それを明示的に表示するため裏返しに着るコーディネートなどはそのわかりやすい例の一つである。これももともとは、そういった細部の差異表示ゲームに興じるというよりは、明示的に自分の持っているハイブランドの衣服の価値表示機能を通じて自らのプロップスを提示するという、さらに転倒した価値をもってコーディネートに取り組んだChavの着こなしに由来することはよく知られている。

Burberryを着こなすChavの例。もっとも彼らはChavという蔑称でなく、フーリガンの後継として自らを位置づけていた。

 こうした価値転倒をモードブランドが転用し、細部の差異表示ゲームを刷新し、それをモードの舞台における新たな差異表示ゲームの舞台に登場させる。そういったラグジュアリー・ストリートの流れが勃興したのが2010年代全体の概括として述べられるという見立ては間違っていないだろう。ストリートカルチャーの価値転倒―語弊を恐れず言えば、ルールへの無理解と節操なき着こなし―それらを飲み込む引力こそがモードの本質だと論じたのは、ピエール・ブルデューやジャン・ボードリヤールであった(ブルデューについては拙論を参照、ボードリヤールについては2章「KENZO FALL-WINTER 2023 RUNWAY SHOW」のなかの「アメリカン・ヴィンテージ」―「ミリタリー」に着目して にて詳述)。ランウェイでスーツやコートの袖タグを着用したまま歩いているのもそういった価値転倒(外すことを知らないなんて!)を活用したわかりやすい例だろう。所謂「ロゴドン」的な下品さ、無理解な野蛮さに対して、モードは斥力としてでなく引力として働く。こうした下卑た悪趣味を「キャンプ」というタームを通じて論じたのはスーザン・ソンタグであった。補助線として引用しておこう。

 …キャンプとはスタイルを基準にして見た世界のヴィジョンである。ただし、スタイルといってもある特殊なスタイルである。つまりキャンプとは、誇張されたもの、《外れた》もの、ありのままでないものを好むことなのだ。…

 …素朴なキャンプと意図的なキャンプとは区別せねばならない。純粋なキャンプは必ず素朴である。自らがキャンプであることを知っているキャンプ(〈キャンプごっこ〉)は、普通は純粋なキャンプほど面白くない。

 …もちろん、キャンプの標準は変わりうる。これには、時の経過が大いに関係がある。現在のものはわれわれにとってあまりに身近にすぎ、またわれわれ自身の日常生活の幻想に似ていすぎて、そのもののもつ幻想性がわれわれには見えないことがある。だが時がたてば、いまは肩を怒らしていたり幻想を欠いていたりするようにしか見えないものも、もっと高級なものに見えてくるかもしれない。ある幻想がわれわれ自身のものではない場合のほうが、われわれはそれを幻想として楽しみやすいのである。

 …だからこそ、キャンプ趣味が珍重するもののうち、これほど多くが旧式で時代おくれで流行おくれなのだ。古いものがそれ自体として好まれるというのではない。古くなったり質が悪くなったりする過程を通じて、必要な距離が生まれたり、必要な共感が呼びさまされたりするというだけのことである。…

 …キャンプ趣味は、よいか悪いかを軸とした通常の審美的判断に背を向ける。キャンプとはものの位置をひっくりかえすことではないのだ。それは、よいものを悪いと言ったり、悪いものをよいと言ったりすることではない。キャンプがやるのは、芸術に対して(そして人生に対して)別の―補助的な―判断基準を提供することである。

ソンタグ・スーザン著、高橋康也et al.訳「《キャンプ》についてのノート」『反解釈』ちくま学芸文庫、1996、437、442、448-449、451

 男性服飾においてブルジョワ革命以降紡がれてきた「ダンディズム」を、「キャンプ」をもって揶揄する―この「キャンプ」は、「ダンディズム」や「モード」に回収されることとなるのだが―といった試みが当該コレクションを通底する試みであることは強調してむべないことだ。
 大きく議論は迂回した。本論に戻ると、トップスの前身頃、後身頃はベストをデザインソースとしつつ、それをコートに重ねて着用できるほどに身幅を大きくしており、それによりルックではエンジニアジャケット然とした概観を呈しているという点についてであった。そしてこのベストを全面に出すというコーディネートを代表とするコレクション全体に「キャンプ」的意志が垣間見え、下部を見れば着流し的意匠が垣間見え、そして組み合わせをもって上部にはエンジニアジャケットのような外観を呈すということ。ここで、3、4、5、6を通底している試みについて述べる準備がようやく完全なものとなった。それは、概括すれば、戦後日本を通底するまなざしの中で、「日本的なるもの」として内面化された衣服を外国文化との混交状態に「置く」ということである。

ルック3、4、5、6を通じて―「日本」と「アメリカ」、その私生児としての裏原

 「伝統的日本の構造(traditional Japanese construction)」としてではない形で、着流しやケープ、ハッピにまで通底する「日本的なるもの」を描き出す―NIGOは、どのようにそれを可能にしたのか? デザインソースとして参考にしていると明言はできないものの、ここで一人の「日本的」人間を取り上げる。太宰治である。

インバネス・コート。6のルックのようなレイヤーを前提とし、5のルックのようにケープを着用する。
英国ではシャーロック・ホームズ、日本では太宰治が代表的な着用者である。
着流しを愛用した文豪のひとりとして知られる。日本男性服の洋裁化は戦前から浸透しており※5、一般的なものではなかった。
  • ※5 刑部芳則『洋装の日本史」インターナショナル新書、2022、183頁。銀座で大正14年(1925年)に67%の男性が洋服を着用していた。一方、女性は戦前においても全国の約30%しか洋服は着用されていない。

 急に太宰を取り上げることは疑問に思われる方も多いことだろう。多くの方にとっては教科書で呼んだ『人間失格』や「文豪」としてのイメージが染み付いた夭折の天才という認識であることは想像できる。ここで太宰を取り上げるのは、彼の文学的才能やその表現とコレクションの比較分析などではなく、戦後民衆に彼が与えた影響についてである。

 『斜陽』は、欠陥が多く、均衡を欠いた作品であった。しょっちゅう感傷的なロマンチシズムに陥っていたし、内容のないヨーロッパの述語や名前を飾り道具としてむやみに引用する「カストリゲンチャ」によくあった性癖にも染まっていた。にもかかわらず、この作品が発表とほとんど同時に古典としての地位を得た理由は、作品が描いたデカダンスや自殺が、著者自身のデカダンスや自殺に呼応しているという忌まわしい事実によるものだけではなかった。それは、ほかのどの作品よりも時代の失望感や夢を痛切に描いていたのである。太宰に何が欠けていたにせよ、彼は自分を可哀想に思う気持ちにだけは欠けることがなかった。それが、当時の社会に広がっていた深い被害者意識と強く共鳴したのであった。
 
 こうした人々[引用者注: 太宰治をはじめとするニヒリストの「アプレゲール」文学者など]にたいする文学的評価はどうであれ、彼らはみな、大衆の意識をおおいにかきたて、教条的な思考のあり方を疑問にさらした。その功績の大きさは、彼らを批判した批評家たちにはまず出来ないほどのものであった。日本の本当の意味での革命的変貌の基盤にはならなかったかもしれないが、旧式な価値観にたいする彼らの挑戦は、忘れがたいものとなった。

ダワー・ジョン著、三浦陽一et al.訳『増補版 敗北を抱きしめて 上』岩波書店、2004、184、188-189頁。

 ジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』において、戦後の日本民衆は、直面した「敗戦」や「天皇」「アメリカ」がもたらした変化をどのように乗り越えていったかということが克明に論じられているが、ここにおける太宰の評価を上記に引用している。太宰は占領軍に対し否定的であり、その作品においては教条主義的な左翼を批判し、時に全体主義的な文化のもとで犠牲となることの恍惚をあらわしていることからも、戦後日本が敗北によって享受した民主主義的文化ではなく、むしろその中に翻弄される民衆に寄り添った文学者として位置づけられている。太宰が代弁したのは、屈曲し、「虚脱」「分裂状態」に置かれている日本民衆に対する一つの様式論的慰めの方法であり、その中で表現される「伝統的日本の構造(traditional Japanese construction)」なるものがあるとすれば、それは、誇り高き伝統、「美しい国日本」などといった国粋主義者が掲げる時代錯誤の頑迷なる誤謬ではなく、まさにそうした「美」に近づきたくとも、現実に一度目をやれば儚くも崩れ落ちてしまう歪みきった「日本」という国の形である。太宰は正直であった。このような実情に目をやったときに、古式ゆかしき和服(着流し)に袖を通そうとも、戦前から通底するインバネス(ケープ・ポンチョ)に代表されるヨーロッパ由来の服を着用しようが、彼は誇り高き日本人として振る舞うことの不可能性に対して向き合い続けることとなった。「カストリ文化」の名の通り、質の悪い密造酒をあおり、酩酊状態に自らの身を置かねば、書き続けることもできなかった。そういった屈曲した感覚を、現代日本に生きる私たちも、「伝統的日本の構造(traditional Japanese construction)」なる言葉で粉飾された和服らしきものを目の当たりにするたびに感じているのではないか?

 「アメリカ」「天皇」「日本」「民衆」―これらの交点自体が複雑に絡まりあい、NIGOがBAPEでサンプリングを重ね続けたアメリカン・カルチャーへの憧憬という図式を生み出すに至った日本文化の性質変化が生じたのは、(明治時代からの連続性も念頭においた上で)敗戦後からではなかったか。

 NIGOは巧みに「キャンプ」する。ビートルズを、太宰治を、「日本」を、「アメリカ」を。しかも、それは静的な服装文化に対する研究(into a study)のような形ではない。徹底的に「日本的な」まなざしを経由した、「他者化」の地平で行う。60-70年代がNIGOのバックボーンであるからその頃のカルチャーをサンプリングソースに…といった理解は全てを取りこぼしている。人は時代に生まれると同時に、文化や言語、まなざしのもとに生まれ、形成される。私たちが生きる文化のもとで表現される様々な文化は、西洋のまなざしのもとに正当化され、評価されるものなどでは断じてない。文化的断絶や敗戦のもとで「分裂状態」におかれた私たちが、その中でさまざまなものを趣向し、身体のもとに概念化する。そうして「他者」は浸透する。そんな浸透の先にNIGOがたどり着いた表現こそが今回のコレクションであって、西洋が行う(ときに「文化盗用」と揶揄される)文化のごった煮の極地に存在する表現とは趣意が異なる。いつまでもファッションライターは「ショー(一方向的なまなざし)」の範疇でコレクションを眺め続けていたいようだが、本コレクションは、さまざまな「分裂」を通じて身体化=概念化せざるを得ないという、コロニアル(同様のことは、日本が大戦下で占領したアジア太平洋の国々に対する日本からのまなざしに対しても言えることである)な状況下においてNIGOが獲得したまなざしの発露であり、「他者化」される対象としての西洋があぐらをかきながら客体化して理解できるほど容易いものではない。私たちの文化は西洋のショー・ケースではない。このことは強調しておいて無駄はないだろう(もっとも、本稿を彼女ら彼らが読むことも、理解することもないだろうが)。

 私たちは、ビートルズが着用したハッピを見て、西洋人が着用する和服を見て、「日本」を「他者」として客体化する。同様に、敗戦後将校が来ていた軍服を見て、ハリウッド映画を見て(1920年代から視聴されていた)、雑誌を見て、古着を着て、「アメリカ」や「イギリス」を「他者」として客体化する。その客体化を超えて、概念化の地平に行き着く早幾年となった日本民衆の変化を論ずるためには、その背後に構造的な不均衡、まなざしの不均衡が存在していることを明らかにすることが必要であることは明白である。
 井上雅人は、日本のファション史研究を「洋装史」と「デザイナー史」と「若者文化史」の3つに分類しているが、その中で、「若者文化史」を「モボ・モガ」以降の「族」や、カタログ的雑誌文化の創刊に着目しながら、ストリート・ファッションを中心に据える歴史観であると論じている※6。さて、ラグジュアリー・ストリートなる概念を駆使し、自らの維持発展を試みるパリ・コレクションに代表されるモードは、まさしく日本におけるストリート・ファッションをカンフル剤として利用している。その上で私たちが行わなければならないのは、その「ストリート」なる観念の中に胚胎している日本社会や民衆が経験した混迷に満ちた試みを丁寧に辿ることであり、それを異化し、処理可能な函数として扱い、その試みをも差異のゲームに還元することに対する明確な拒絶である。
 ここからは、複数箇所に渡って大まかに日本民衆と「他者」としての「アメリカ」の関係を論じたものを引用しつつ、それが「浸透」=概念化していく道程を読者とともに追っていく。

  • ※6 井上雅人『洋裁文化と日本のファッション』青弓社、2017、33-34頁。

 第一次大戦後の日本におけるアメリカニズムは、すでに裏返しのナショナリズム、つまり西洋的なまなざしを内面化した「日本回帰」を内包していた。都市の大衆文化のなかに浸透する「アメリカ」は、一方的に西洋からの文化的影響として日本に及んでいたのではなく、常にその反作用として「他者」としてのアメリカに関係する自己認識をこの社会のなかに育んでいた。こうして不均衡な関係を通じてナショナルな主体が立ち上げられていくプロセスが、大正末以降、「アメリカ」との関係においてすでに存在したのである。そして三○年代以降の「日本への回帰」は、こうした模倣への欲望を媒介にしてはじめて可能になっていたのである。

 忘れてはならないのは、天皇的な権威も、アメリカのイメージも、ともに一九世紀半ば以降の日本にとって近代そのものであった点である。「アメリカ=他者としての近代性」のイメージに包摂されたのは、最初は「自由」の国のイメージであり、やがてその自由の裏側にある貧富や差別、弱肉強食の現実についての認識であった。さらには大正期になると、消費的なモダニティとしての「アメリカ」が、ハリウッド映画や新しいライフスタイルのイメージと結びついて都市的日常を席巻していった。このアメリカは、エロティックな他者として女性をまなざす同時代の視線により、しばしばモダンガールの典型的な姿に受肉されていた。
 その一方で、日米開戦が悪化し、やがて戦争にまで至ったときも、日本社会は最後まで「アメリカ」を、「鬼畜米英」といった標語のレベルを超えて、劣等で残忍な他者の具体的な姿として描き出すことができなかった。これは、他方のアメリカ社会が、きわめて用意に劣等で残忍な他者としての「日本」を具象化していったのとは対象的であった。
 明治以来、日本における近代性は、基軸的には天皇の身体、その天皇の身体を頂点とする家父長的な権威のシステムによって駆動されていた。この国家的な近代性がモデルとしていたのはドイツをはじめとする西欧列強であり、アメリカではなかった。それにもかかわらず、アメリカはすでに幕末から自由民権運動のなかで、また明治の終わりには浅草の民衆娯楽の世界において、草の根的なレベルからのモダニティの表象として取り込まれつつあった。やがてそのアメリカが、一方では大正デモクラシーにおけるウィルソン主義の理想に、他方ではハリウッド映画に象徴化されるエロティックで消費的なアメリカニズムの奔流になっていく。

吉見俊哉『親米と反米』岩波新書、2007、53、58-59頁。 

 戦前から通底する「アメリカ」という近代性=モダニティは、自由民権運動やハリウッド映画、新しいライフスタイルと結びつき、民衆の側から受肉されていった。その経験は戦後日本が、その国全体で「アメリカ」を受肉する過程の下地をすでに形成していた。1930年代以降加速する「万世一系の天皇が統治する国」、「八紘一宇」、「一億玉砕火の玉だ」などといったわかりやすい全体主義的モチーフは、まさしくこういった文化的ジレンマ、つまり民衆の身体に「浸透」しつつあった「アメリカ」をはじめとする「他者」の概念化に抗する形で持ち出されたレトリックであり、そういう意味で「美しい国」や「単一民族国家」などといった「一つの言語、一つの民族、一つの文化」的イメージに「日本」を還元したがる政治家、右翼などは、適切な現状認識(もう「浸透」しきっている!)を欠いている。むしろそういったレトリックに拘泥し、アジア太平洋地域の諸国を占領し、ひいては国土に原爆を二つ落とされ、沖縄の四分の一にもあたる人々が犠牲になったアジア・太平洋戦争を経て、苛烈な「虚脱」「分裂状態」に置かれた民衆が一つ一つ紡ぎ出してきた文化的な織り成しに対して何一つ関心がないことを明確に表している。民衆は、彼らが信じることを強制された「伝統的日本の構造(traditional Japanese construction)」の体を装って構築された「創られた伝統」の全てが嘘っぱちであることを、敗戦後我先に軍需物資を奪う高級官僚や軍人の姿、責任を負わない昭和天皇(もっとも、これはGHQの日本統治のため仕組まれた出来事ではあったが)の姿を見て実感した。そんな中でも、目の前にありありと広がる焦土、失われた親類、愛すべき家族をもってしても絶望に屈することなく、さまざまな文化的混交の中から、継ぎ接ぎだらけの文化を「発明」した。そんな「日本」文化を咀嚼し、解釈し、理解することではなく、「伝統的日本の構造(traditional Japanese construction)」の象徴する「美」に拙速に飛びつく行為そのものが、どれほどに愚昧で悪辣な「逃避」であり、それがどれほどまでに自己矛盾をきたした幼稚な忘却であるかということは、ここで強調しても強調したりないものである。

 …米兵と腕を組んで歩いたり、米兵のジープに乗って陽気にさわいだりするパンパンの姿は、突き刺すように日本人の誇りを傷つけたし、とくに男性には、男として情けなさを感じさせた。と同時に、パンパンの姿は占領下の日本人の誰もが巻き込まれていた「アメリカ化」という巨大で複雑な現象のなかの、ひとつの目立つ例なのであった。パンパンは公然と、恥しらずに征服者に身を売ったが、他の日本人、とくにアメリカ人のお近づきになった、いわゆる「善良」な特権的エリートたちもまた、肉体そのものではないが、ある意味で身を売っていたのである。これは気持ちのよい状態であったとはいえない。

 ひょっとすると、この時代のパンパンたちは日本の「水平的」な西洋化という、それまでなかった文化交流現象の、もっともわかりやすい象徴かもしれない。かつては、この国で文化交流の影響といえば、まず例外なく「垂直的」に、つまり上層エリートから浸透していったものである。「モダン・ボーイ」や「クララ・ボウ・ガール」がもてはやされた一九二○年代のフラッパー[おてんば娘]文化は例外のようにもみえるが、これでさえ余裕のあるブルジョワ階級にかかわりがあっただけで、一般庶民はあまり影響をうけなかった。社会の下層であるパンパンたちは、民衆レベルの「水平的」な西洋化という、それまでにないものの象徴となったのである。したたかで明るい彼女たちほど、比喩的にも文字通りにもアメリカ人に「近い」存在はいなかった。快楽主義と物質主義にもとづくアメリカ的消費文化の先駆者として、彼女たちにまさる者はいなかったのである。

ダワー『増補版 敗北を抱きしめて 上』153、157頁。

 敗戦後、国による能動的な呼びかけ※7により招集された「パンパン」と呼ばれた街娼は、伝統的家父長制や、「銃後」としてそういった構造に据え置かれる「女性」という客体を皮相的な形で乗り越えた。「モボ・モガ」の次に、ストリートファッション史に残る「族」として描かれるべき対象であり、まさにその戦後日本のストリート・ファッションに先鞭をつけたのは他でもない「パンパン」であった。彼女たちがその身体をもって表現した物質文化の具現化としての「アメリカ」という「他者」は、彼女たちの身体のみならず、彼女たちの姿を見て苦しむ男性たち、彼女たちの「ふしだら」さを糾弾する主婦たちの身体にも、明確な「他者」としての「アメリカ」を受肉する契機となった。余談ではあるが、国立や原宿が市民運動により獲得した「文教都市」という制度は、「パンパン」達が米兵相手に行う私娼行為の場である「置き部屋」を排除することを目的の一つとして導入されたことは論じておく必要がある。既にこのころから「基地」=立川、ワシントンハウスと「文化」の二重のアメリカ像は形成されつつあった。

  • ※7 「天皇の敗戦放送のあと、「敵は上陸したら女を片端から陵辱するだろう」という噂が野火のように広まった。内務省の情報課は、この噂が日本軍の海外での行動と関係していることにただちに気がついた。警察の内部報告書は「掠奪強姦などの人身不安の言動をなすものは戦地帰りの人が多いようだ」と述べている。」「日本政府はすぐにこの問題への答を出した。八月一八日、内務省は全国の警察官区に秘密無電を送り、占領軍専用の「慰安施設」を特設するよう指示した。」ダワー『増補版 敗北を抱きしめて 上』140-141頁。

 暴力としての「アメリカ」はしかし[引用者注: 新たな戦後的ナショナリズムが構築されている基礎を提供してもいたものの]、基地内外に若者たちを吸い寄せ、新しい文化の担い手としていく誘惑性も帯びていた。…戦後日本のポピュラー文化は、たしかに米軍基地とミュージシャンや芸人、若者たちの交渉のなかで育まれてきたのである。沖縄や韓国でも顕著だったこうした交渉は、五○年代までの日本本土にも確実に存在した。
 しかしながら、日本本土でとりわけ重要なのは、このような交渉が、やがてテレビ局のスタジオやメディアの体制に回収されていくとき、基地の存在や暴力としての「アメリカ」の記憶は周縁化され、積極的に忘却されていったことである。このとき、「パンパン」は、占領期特有の風俗か、米軍性暴力の被害者という以上のものではくなり、東京の六本木や原宿など、最も先端的な都市文化の街が、かつて「基地の街」であったことも忘れられていく。一九五○年代から六○年代にかけて、沖縄の基地強化と表裏をなして進行する日本の脱軍事化、すなわち本土の主要な地域からの米軍撤退は、このような記憶の消去を容易にしていった。

吉見『親米と反米』228頁。

 「基地」としての「アメリカ」と、「文化」としての「アメリカ」―一方は沖縄に多くが押しやられ、「忘却」の彼方に追いやられ、他方は「浸透」していった―この両側面が複雑に絡み合って生じたのが戦後日本のアメリカ文化であって、この屈曲した事実をありありと受け止めた民衆により受肉=身体化=概念化=「浸透」され、その身体をもとにNIGOは「アメリカ」へのまなざし、「他者」へのまなざしを獲得する。そしてNIGOは「キャンプ」する―「イギリス」を、「アメリカ」を、そして「日本」を。それゆえNIGOは、ケープ・ポンチョに「日本的まなざし」が刻印された"Versity Jacket"のイメージを刻印し、着流しの上に、「他者化」された「日本」の象徴であるハッピをスタイリングし、着流しのような上部を、袴、モンペのような下部と分割する。「他者化」の彼岸に全ての意匠を追いやり、それが混交し生み出された私生児として自らのコレクションを創り出す。

 日本民衆においては「アメリカ」「イギリス」は「他者」であった。西洋から見た「日本」のような(よくて同列の)「他者」としてではなく、文化の先端、学ぶべき対象としての「他者」であった。ビートルズも、ザ・フーも、ミニ・スタイルも、スウィンギング・ロンドンも、フラワー・チルドレンも、そういった意味での「他者」であった。そういった「他者化」の極地、「浸透」の次元で解釈されるものであり、サンプリング・ソースとして「センス」をもって「カットアップアンドリミックス」するというようなお行儀の良い(悪い?)次元で行われるものではなかった。そのような想像力しかもてないコングロマリットやライターが跋扈している状況下において、「マルジェラ以降パリコレは終わった」などと嘯かれるのは当然の話であろうし、そのような次元でしか「サンプリング」を捉えられていないのなら90年代ですでにやりつくされており、何一つ目新しさもない単なる懐古厨の連想ゲームの域を抜け出ておらず、「意図的なキャンプ」の次元にも達していないということである。(NIGOの当該コレクションのようなものに対しても普段の無価値な懐古主義的連想ゲーム的読解しか行えていないということは、多かれ少なかれ想像はつくことではあるが)
 毒づくのもこの程度にしておき、その「他者化」の「浸透」の彼岸にある、NIGO自身が「師」であり「友」でもあるヴィンテージをどのように位置づけているのか、という点を明らかにするため、次章に移る。

「デコーディング」としてのアメリカン・ヴィンテージ―「これからのファッション業界を背負って立つ若者の為に」NIGOが考えた「出来ること」

「悪い場所」としての「日本・現代」?―椹木野衣『日本・現代・美術』を通じて

 「アメリカ」という「他者」の「浸透」の彼岸に「アメリカン・ヴィンテージ」があるという概略は述べたものの、なぜ「アメリカン・ヴィンテージ」がその彼岸であるのか?という疑問は残っているだろう。本項では彼岸としての「アメリカン・ヴィンテージ」が成立する土台を丹念に解きほぐしながら、その反映としての当該コレクションのルックを述懐していくが、その土台を解きほぐす過程で、「デコーディング」としての「現代美術」を論じた椹木野衣の『日本・現代・美術』を読解し、「日本」「現代」の位置付けを明らかにする。

 自明な語りが、読みが、みずからがよってたつ期限の捏造性を忘却し、そのことによって一言語内部のゲームの規則に沿って言葉の順列を組み換え、美の度合いを競う閉域での饗宴に堕してしまうのに対して、疑いつつ語るものは、おのれがフランケンシュタインの怪物であるという暗い素性を認識し、したがって安易には内面化した言語を根拠とすることをせず、むしろそれが無根拠に由来するということを知れば、ひとえに美を求める心性からはけっして見出すことができない多種多様な物質的根源、すなわちその政治性をそこに見出すだろう。
 近代を成立させているいくつかの条件を認識することによって、近代を超越するのではなく、超越論へといたること、ここでそれが肝要なのは、わたしたちの美術とて「近代」の産物であることを知れば、文学となんのかわりもないからであり、ましてや、美術こそ声高に「美」を担ってきた当のものである以上、美術における「美」という国民ひとりひとりに対して施された内面化のプログラムをデコーディング(解読)することは、たいへん重要なことであろう。そして、いささか特異な定義となるが、こうした未完の近代にかかわる美のプログラムをデコーディングする作業こそが、「現代」における「日本」の「美術」の課題なのである。

椹木野衣『日本・現代・美術』新潮社、1998、74-75頁。

 椹木がここで言及しているのは、「日本文学」と呼びうるものは、外来語の存在―例えば、「自然」「自在」が老荘思想の用語であるとか、「世界」「利剣」が仏語であるとか、「風雅」が『詩経』由来であるとか、「実在」が"reality"の翻訳語であるとか―を「縦書き」という方法により糊塗してきたことにより成立し、「滅茶苦茶、ばらばら、アンバランス」に「創出」されたことであり、そしてその支離滅裂な雑居状態という起源を捏造するために、芸術によって担われる「美」というイデオロギー装置が開発された、ということについてである。そしてこの「内面化のプログラム」をデコーディングするという試みこそが、「現代」における「日本」の「美術」の課題であると。その理由について椹木はこう詳述する。

 …風俗的な文化現象が、垣根を超えるようにして絵画や彫刻、反芸術等といった大文字の「芸術」と接続されるときに起こっていることは、そのような事態[引用者注:「歴史」が抹消された「場所(ここでは日本)」において、芸術も反芸術も下位文化(サブカルチャー)も、対立するどころか相似の共犯関係とならざるを得ないという事態]から導かれているのであって、けっして、ときに口当たりの良い美辞麗句として語られる「ジャンルの横断」などでは断じてありえない。全く反対に、われわれの不幸は、いまだにジャンルがジャンルとして機能しておらず、それゆえに最初からそれらが渾然一体となって現れざるをえないような「悪い場所」に生きることを余儀なくされていることにある。…
 必要なのはむしろ、超越的な価値が成立することをみずから禁じた「近代」におけるジャンルの自立の問題、すなわち諸芸術間にわたる一種の「プライバシー」を早急に確立することなのであって、成熟したジャンルも成立しえない「場所」に、隣組的な筒抜けの無媒介な横断があったとしても、そのようなたかだか生来の慣習でしかないものが、なにか危険であったり冒険的であったりするはずがないのである。真に危険で刺激的な「横断」が国境のような権力の固着した境界を前提とすることは、あらためていうまでもない。ジャンルの横断を目するものとて、本来はそのような「犯罪」と背中合わせのはずであって、ときには死を欠けて行われるべきもののように、わたしには思われる。

椹木『日本・現代・美術』16-17頁。

 「悪い場所」における無作法なジャンルのクロスオーバーを痛烈に批判している椹木は、そうしたデコーディングが、「悪い場所」における「プライバシー」の獲得につながるという。だが、それが「近代」におけるジャンルの自立の問題、「プライバシー」の確立に関与するということはどのような意味においてなのか?「プライバシー」=ジャンルの「自律性」が重要であるとは、どういうことなのか? 椹木は次のように述べる。

 …近代人が根拠を喪失しているからといって、すべてのひとがそのような喪失に耐えられるものではない以上、ほっておけばそのような喪失は容易に「本来性の回復」という偽の存在動機を捏造してしまう…。なぜなら、根拠を要することなく生きていくことが近代人の条件であるというのは嘘で、正確にその条件とは、根拠を要することなく生きていくことが近代人の条件であるにもかかわらず、だれもそのような宙づりに耐えることが出来ないという二律背反なのである。しかしだとしたら、根拠を回復しようとする熱病のようなさまよいは、どのような無根拠を根拠に据えることになるかしれず、そのような無根拠の根拠への反転が、民族や国家、そして場合によってはファシズムという巨大な本来性の回復運動に必然的に繋がったとしても、なんの不思議もない。どのような無根拠も根拠に据えうるという体型の複数性/恣意性こそが、近代の本性であるかぎり。

椹木『日本・現代・美術』19頁。

 「滅茶苦茶、ばらばら、アンバランス」で、根拠を失った「悪い場所」においても、「本来性の回復」を求める「熱病のようなさまよい」はアンビヴァレントに生じることが「近代人」の「条件」、宿痾と呼ぶべき現象であると椹木は喝破する。同様のことは前述の通りであろう。それが、「本来性の回復」や「正統文化の復古主義」とはなんら関係のない試みであるNIGOのコレクションは、「日本的伝統の構造」をはじめとする「根拠」へとすり替えられた。そのコレクションの巧拙が理解できない人びとは、作品としてのコレクションではなく、「物語」としてのショーとして理解するしかない。そして彼らの評価の根拠に、安直にも「本来性の回復」という動機は据えられる。では、どのように「プライバシー」を保てと言うのか? 椹木は、その不可能性を論じながらも、異なる方法で「生存の様式」を「受け止める」ことを強調する。

 にもかかわらず、われわれに今必要なのは、「閉ざされた円環[引用車注: ここでは「歴史」から切り離された近代日本]の彼方」を早急に切り開こうとすることではなく、「閉ざされた円環」の存在を認識し、それに否定しがたく規定されているみずからの生存の様式を受け止めることでしかない。

 実際、日米戦争に敗北した日本は、「平和憲法」を受け入れることによって武装解除を強いられると同時に、米ソの2曲支配のもとで、世界史という「歴史」に参入することの権利を半永久的に剥奪されることになる。また、そのことによって得られた歴史から隔絶された閉鎖的、同質的空間が、その後の驚異的な経済成長の原動力となったことも、忘れてはならない。そして、繰り返すことになるが、こうした「忘却」が、種々のメディア・テクノロジーに補強されることによって現われた、記号の戯れ―それこそが、「ポストモダン」と呼ばれる事態だったのであり、そしてまた、それは「閉ざされた円環」の「彼方」を創出しようとするあらゆる意志と行動を、「暴力的」に排除する…。

椹木『日本・現代・美術』23、24頁。

 第二次世界大戦という「暴力」により「閉ざされた円環」=「悪い場所」=「ポストモダン」としての現代が立ち上がるわけだが、なぜ「今必要」なことが、それを「閉ざされた円環の彼方」に切り開くという実践ではなく、「生存の様式」を「受け止める」ことなのか?

  …わたしは「閉ざされた円環」という暴力を、さらなる暴力をもって累乗に否定的に押し開こうとするものではない。そうではなく、この円環それ自体が巨大な暴力であり、それに対するには暴力をもってしても無意味であるということ、そして、この円環のなかにさまざまな抑圧や分裂、錯綜や矛盾が渦巻いているということ、つまりは「日本現代美術」ではなく、「日本」における「現代」の「美術」それ自体が、打ち振るわれた「暴力」が千に砕け散ったあとの無数の破片の一部であるということ、それがどんなに薄っぺらで奥行きを欠いた表象の戯れに見えたとしても、目を凝らせば、そこに無数の矛盾と対立の素顔が書き込まれているということ―そのことを「認識」し、われわれの「現実」を一枚岩の「平和」ではなく、多種多様な生存の様式の複合的な集積として再発見し、そこにおいて新しい生の在り方を「発明」していくための突破口とすること、いっこうに「自律」しえない「絵画・彫刻」を、「制作の放棄と実践への展開」を、「ポストモダンとしてのシミュレーショニズム」を、そのような認識を得るための複合的な概念装置として再発見すること、そしてその実践―それが「日本・現代・美術」の課題である。

椹木『日本・現代・美術』、25頁。

 随分と長い引用となってしまったが、ここでその論旨は明白なものとなった。「滅茶苦茶、ばらばら、アンバランス」な「悪い場所」=「閉ざされた円環」の中に書き込まれた「錯綜」や「矛盾」を直視すること、そこにおける「新しい生の在り方」を「発明」する「突破口」としての「実践」―椹木は、「日本・現代・美術」の課題をそこに位置づける。
 だが、ここに奇妙な類似を感じるのは私だけではないだろう。つまり、「日本現代美術」の課題でなく、「日本・現代・美術」の課題である点、そしてその課題が、「日本現代美術」という自閉した歴史空間の中にではなく、「閉ざされた円環」その空間の中で行われるものであるならば?  NIGOの実践は「閉ざされた円環」の中で行われた「新しい生の在り方」を「発明」する「突破口」としての「デコーディング」という「実践」なのではないか?
 拙速に飛びつくことを自制しつつ、丁寧にルックを解読しながら、「アメリカン・ヴィンテージ」を「これからのファッション業界を背負って立つ若者の為に」展示した「NIGO展」とも絡めつつ、その「デコーディング」の営為をここからは論じることとする。最後に、NIGOが"NOWHERE"、"A BATHING APE"を展開した90年代前半に、「ニッポンのポップ」を通じて「デコーディング」を行っていた村上隆や会田誠について論じた一節を引用する。

 「ニッポンのポップ」は、ただたんに東京の新たな消費生活に由来するだけの「反映」のポップではありえない。反対に、アメリカに骨の髄まで犯された心と身体の滅茶苦茶さを、ばらばらさを、そしてアンバランスさを、現代美術という、いまでは自然で自明なものとなってしまい、ほっておけば一人前に歴史すら語りかねない美辞麗句に、その隠された悪い素性を呼び戻すための、ひとつのゆがんだ方法なのだといってよい。こういう言い方は悪意に満ちているだろうか?わたしはそうは思わない。なぜならば、現代美術という自明さが保たれるかぎり、そこから忘却される多種多様な矛盾、分裂といった生の様相は行き場所を失ってしまう。しかし、実際にはそのような雑居的な、群島的な場所にこそ、わたしたちが生き、呼吸し、ものを作り、ものを語る喜びもあるのだし、むしろそのような喜びがかくいう雑居性の別名なのであってみれば、その程度の悪意がどれほどのものだろう。

椹木『日本・現代・美術』84頁。

 次項、「KENZO FALL-WINTER 2023 RUNWAY SHOW」のなかの「アメリカン・ヴィンテージ」―「ミリタリー」に着目して以降は、字数の関係のため(下)としてアップロード致します。


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