読まれる文章には理由があった
この放送をみた。
NHKで水曜の夜にやっている番組で、僕は初回からほぼ欠かさず観ている。毎回楽しみながら学んでいる。
僕の歴史知識は小説やドラマやテレビなど「大衆エンタメ」から得ることがおおい。大学の研究論文を読んでいるわけではないし、セミナー等にいそいそと通っているわけでもない。
「歴史の新説」というのはつねに更新されるもの。
知りたい情報をタイムリーに得られるかは運次第だとはいえ、ときとしてテレビからは「なにか大きなもの」を受け取ることがある。
「へー、この人にはそんな一面があったのか」
「あの事件にはそんな裏が...」
「よし、ちょっと調べてみよう。」
そうやって自然と、足が図書館へ向かう。これらの気持ちにさせてくれる存在はけっこう貴重だが、じつは少ない。
知識が体験を生んで、体験がいつか僕らの財産になる。
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ところで、正岡子規。
愛媛県松山市のうまれで、俳句の有名人。いまも松山には、誰でもいつでも自作の俳句を投函できる「俳句ポスト」なるものが街のいたるところに設置されているらしい。
この番組のなかで、「日本人が感じる5・7・5のリズム」についての調査があった。
たしかに5・7・5は言いやすい。気がつかないだけで、世のなかの広告にもひろく使われている。
まえにこんな記事を書いた。
「書く人の そっと背中を 押せるなら」
意図していたわけではなかった。本文を書き終わり、改めてタイトルを考えはじめたものの数秒でパッと頭にうかんだ。
口からスルッと出てくるということは、そういうことなのだろう。
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ここで、おもったことがある。
この文章いいな、おもしろい、わかりやすい。「いい文章」はいつだって「主観的」である。
僕はおもしろいとおもうけど、隣のあの人が気にいるかどうかなんてわからない。読む人(受け手)によって、育ってきた環境も読んでいる場所も時間もなにもかもが違う。感じ方に差がでて当然である。
その一方で、「いいリズム」はいつだって「いいリズム」だ。比較するなら「客観的」だともいえる。
なぜなら僕たちは、おなじような日本語を話して聞いて読んでいるから。方言こそあれ、現代人においてそこまで言語レベルに差があるとはおもえない。
そうなると、話しやすい、聞きやすい、読みやすい言葉、というのはある意味で正解がうまれる。その答えのひとつが、「5・7・5のリズム」ということになるんだとおもう。
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もちろんすべての文章やタイトルを読みやすくする必要はないし、そんなことは無理だとおもう。
でも、どうすれば読みやすくなるか、を考えることは何よりも大切でむずかしいこと。だからこそ僕は、つねに受け手目線に立って「考えて」書いていきたい。
ほら。
こうやってなにげなく得たひとつの知識から「書きたい」という欲になり、それがきっと僕のリズムになるんだとおもう。
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