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安定した記事から、滲み出るもの

文章を書いているといつも、「奥がふかいな」と感じることがある。

それは、「文字数」について。すこしばかり考えて書いてみたい。

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以前に、noteプレミアムについての記事を書いた。書いたのだから当然、月500円を払って入会していた。それからのちは、退会したり再入会したりを繰り返しているのだが(現在は入っていません)。入会した理由は、「予約投稿」のためだった。

予約投稿のいいところは、予約した時間に投稿ができることだ。そう、書いたらバカだとおもわれるのでちゃんとくわしく書くことにする。ようは、きめた時間に投稿がしやすくなるということは、書き手のリズムとおなじぐらいに、読む人にとっても読むリズムを維持しやすいということがある。日課になるほど、心強いものはそうない。

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僕はよく、「Voicy」という音声配信アプリで「ながら聴き」をしている。

いまとなっては当たり前の機能なのだが、すきな配信者をフォローして、あたらしい配信が投稿されたときにスマホに通知がくるようにしている。だからというべきか、基本的に日常生活のなかで「Voicyを聴こう」という気になることはあまりない。どちらかといえば、「通知がきたからその放送だけ聴くか」という感じである。それ以上でもそれ以下でもない。ただの日課、ということだ。

僕は、こういう書き手をめざしている。

「noteを朝にひらいたら、長屋の記事が投稿されている。さぁ、読むか。」

際立ったおもしろさや価値はないが、毎朝きまってここにいる、そういう安定感を築いていきたい。

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さて、本題の「文字数」について。

でも、言いたい本質はおなじなのだ。新聞に載るコラム記事が世代や時代をとわずに支持されるのは、文の質もさることながら「ずっとおなじ文量だから」だとおもう。おとといは700文字だけど、昨日は1500文字あった。今日は300文字しか載っていません、だと読んでいてどうも落ち着かないような気がする。

人は無意識のあいだに、相手にたいしてイメージをもつ。「この人は大体これぐらいだろうな」と予想して、いざふたをあけて多かったら「今日は重い...」となるだろうし、反対に少なかったら「物足りない...」と感じてしまうのは目にみえている。

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なぜ、こんなことを考えているのかというと理由がある。

自分でいうのもなんだが、僕の記事は人とくらべて「お堅い」ような自覚がある。もちろん(?)noteではめったに絵文字や記号をつかわない。それに、へんに小説にあこがれを抱いているため、太文字や見出しもとりわけ意味がないかぎりはつかわないようにしている。もっといえば、書き手の僕自身が、ユーモアのあるやわらかい人間ではないのである意味それはしかたがないともおもっている(開き直るな)。

このnoteで書いているのは、もちろん僕以外にはだれもいない。だから、僕が書けばあるていどはこんな感じになるのだろうが、「たまにはゆるい記事も書いてみたくなる」。つぶやきとはまた違う、日記のようなエッセイのような。いい意味でオチも目的もなにもない、ただ口に出してしゃべっているかのような文章を書いてみたい。

でも、たとえそうだとしても、「僕らしい文字数を意識して書きたい」とおもっている。

ゴールがないからといって、ただ空虚なことばで原稿をうめても意味がない。書くことがないからといって、スカスカの原稿でも味がしなくてつまらない。

理想は、どんな状況でも悲しいことでもたのしいことでも、「勝手気ままに書いたらそれがいつも文字数だった」、こんなところだろうと。

やっぱり奥がふかいが、それでこそ「言葉のプロ」という感じで想像するだけでわくわくしてくる。

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