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【読書録】「なぜ働いていると本が読めなくなるのか 」を読んで早々本が読めなくなった話

こんにちは。

先日、三宅香帆著『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読み終わりました。

そして皮肉なことに、これを読んで「そうそうそうなのよね〜」と色々咀嚼している間に仕事やら日常やらで多忙を極め「本を読めなくなる」状況に早速陷っておりました。なんていうことでしょう!

今はやっと落ち着いてきてアウトプットできる気力も取り戻したのですが、そのおかげでこの本に書かれている結論に対してあらためて「本当にそのとおりだな!」と思えるようになったので、今日はそのことをば。



1. 本の簡単な概要とそれに対する感想

まず、まだ読んでない方のためにこの本のかなりざっくりとした内容と要点のまとめ。

テーマというか、この本全体を通した問いはタイトルの通りなんだけど、それを理解するためのアプローチとして、著者はまず日本における読書と労働の歴史を解説してくれています。ここは、「本が読めない」状態の人は読み飛ばしてもいいかもしれない。後で触れるこの本の要点の部分そのものでもあるけど、この部分は「ノイズ」になり得るから。

でもこの部分は個人的にはとてもおもしろかったし、本質としては全て繋がっているので、余裕がある人はぜひ読んで欲しい。というのも、私自身大学院で近代日本文学を研究していた身で、日本の読書の歴史というのは既にざっくりとは把握していたから。していたんだけど、それを労働と絡めて改めておさらいし直すことで、大学院生当時は全く見えてなかった日本社会の全容が見えたような気がするなぁ、と。

特に私は大学院生だったころは社会人経験がなかったので、労働とはどういう感じなのかがいまいち理解出来てなかったのよね。だからもし当時この本があったとしてもよく分からないまま終わってた気がする。例えば、谷崎潤一郎の『痴人の愛』のエピソードが本書では語られていました。この小説は私も大学院生時代に授業でも勉強してレポートなんかも書いた作品。でも、それがどのような読者層が読んでいて、彼らがどのような社会的立場に置かれてたのかという視点では見てなかったので、分かってたつもりで分かってなかったな!と気づいたというか。

これは私個人の面白かったポイントだけど、今の社会デザイン労働してる人たちのことを理解する前提として、サラッと読んでおくとためになる部分だったなと思います。

2. 働いていると本が読めなくなる理由

「なぜ(現代社会において)働いてると本を読めなくなるのか」という問いに対する筆者の答えは、一言で言えばこれかなと思う。

本を読むことは、働くことの、ノイズになる。

働いていると本は読めなくなるんだけど、例えばスマホで目的もなくSNSやネット記事を読んだり、ゲームをしたりすることは出来る。それらの行為と読書は一見、活字を追っているという点で同じように見える。しかし実態としてはちがう。何が違うのかといえば、「ノイズ」があるかどうか、ということ。

ノイズというのはつまり、自分が知りたい情報や見たいもの以外にくっついてくる予期せぬ情報とか、思わぬ形で感情を動かすものとか。

働いていると、自分のためにカスタマイズされた、必要なもの「だけ」を知れるコンテンツは消費出来ても、それ以上の広がりや深みを受け入れるキャパシティや心(頭)の余裕は無いよということ。そして、現代社会においては、そういう「ノイズ」の大切さ、良さみたいなものを感じることが難しくなっている。

自分の好きな仕事をして、欲しい情報を得て、個人にカスタマイズされた世界を生きる。それが2000年代の「夢」なのだとしたら、「働いていると本が読めなくなる」理由は、ただ時間だけが問題なのではない。  問題は、読書という、偶然性に満ちたノイズありきの趣味を、私たちはどうやって楽しむことができるのか、というところにある。

私自身、文学をやっていた身として、そういう読書の楽しさ、面白さ、大切さがどんどんと蔑ろにされていく社会というのは悲しいなぁと思ってきました。が!そういう私自身が、今ちょうど、この「ノイズ」を受け付けられない状況に陥ってるというね!

自分から遠く離れた文脈に触れること――それが読書なのである。  そして、本が読めない状況とは、新しい文脈をつくる余裕がない、ということだ。自分から離れたところにある文脈を、ノイズだと思ってしまう。そのノイズを頭に入れる余裕がない。自分に関係のあるものばかりを求めてしまう。それは、余裕のなさゆえである。だから私たちは、働いていると、本が読めない。   仕事以外の文脈を、取り入れる余裕がなくなるからだ。

大学院生時代含む学生時代は、この感覚が分からなかったので「文学は大事!どうしてみんな読まないのか分からない!どうして文学は社会で軽視されたりするんだろう?みんな読んだほうがいいよ!」などと思っていました。しかし今思うとそれは本当に「パンがないならケーキを食べればいい」状態で、私がいた当時の環境はある意味特別に恵まれた貴族的世界だったなぁと思います。

わたしは、社会人として働き始める前段階で文学や学術にどっぷりと浸かるような期間が持てたけど、世の中の多くの人はそうもいかない。そういう余裕がそもそも持てない社会というのはなんともさみしいというか、辛いものがあるなぁと私なんかは思ってしまう。著者もこう書いています。

教養とは、本質的には、自分から離れたところにあるものに触れることなのである。それは明日の自分に役立つ情報ではない。明日話す他者とのコミュニケーションに役立つ情報ではない。たしかに自分が生きていなかった時代の文脈を知ることは、今の自分には関係がないように思えるかもしれない。  しかし自分から離れた存在に触れることを、私たちは本当にやめられるのだろうか?  私たちは、他者の文脈に触れながら、生きざるをえないのではないのか。  つまり、私たちはノイズ性を完全に除去した情報だけで生きるなんて――無理なのではないだろうか。

大切なのは、他者の文脈をシャットアウトしないことだ。  仕事のノイズになるような知識を、あえて受け入れる。  仕事以外の文脈を思い出すこと。そのノイズを、受け入れること。  それこそが、私たちが働きながら本を読む一歩なのではないだろうか。


3. 「半身で働く社会」

結論として、著者は現代社会は読書からもたらされるノイズさえ許容できない状態にたくさんの人が置かれてることの打開策として、「半身で働く」のが良いんじゃないかと言ってます。

(前略) 「全身全霊で働く」男性の働き方と対比して、女性の働き方を「半身で関わる」という言葉で表現した。 身体の半分は家庭にあり、身体の半分は仕事にある。それが女性の働き方だった。

そう、私が提案している「半身で働く社会」とは、働いていても本が読める社会なのである。

この部分が、私が大きく頷いたところ。そして、半身なんて言わずに1/3身くらいでも良いんじゃないか?と正直思う。

この1/3身というのは、実は私は自分でも昔からずっと考えてきたことなのよね。なんでその思いに至ったかというのも、この本の問いにも繋がっている。自分の好きな文学や芸術の世界と繋がり続けるためには、自分が労働に割くエネルギーを総量の1/3程度にしないとダメだなと、実体験として認識してた。


だからこその永きにわたるモラトリアムとワーキングプアだったわけだけれど。

しかし、ある時諦めがついたというか、一旦芸術や文学の世界はいいかな、と思える瞬間が来た。私の場合は。それは、人生における必要最低限量を、それまでに相当量吸収したからというのも大いにあるとおもう。そういう意味で私はかなり恵まれていた。そこからは、仕事をしっかりするようになった。

その過去のストックのおかげで今は割と心の余裕はあるんだけど、それでもふと油断するとすぐにバランスを崩してしまう。

しかし一方で、ひとつの文脈に全身でコミットメントすることを称揚するのは、そろそろやめてもいいのではないだろうか。  つまり私はこう言いたい。  サラリーマンが徹夜して無理をして資料を仕上げたことを、称揚すること。  お母さんが日々自分を犠牲にして子育てしていることを、称揚すること。  高校球児が恋愛せずに日焼け止めも塗らずに野球したことを、称揚すること。  アイドルが恋人もつくらず常にファンのことだけを考えて仕事したことを、称揚すること。  クリエイターがストイックに生活全部を投げうって作品をつくることを、称揚すること。――そういった、日本に溢れている、「全身全霊」を信仰する社会を、やめるべきではないだろうか?  半身こそ理想だ、とみんなで言っていきませんか。  それこそが、「トータル・ワーク」そして「働きながら本が読めない社会」からの脱却の道だからである。

もちろん何かに全身全霊を傾けたほうがいいタイミングは、人生のある時期には存在する。しかしそれはあくまで一時期のことでいいはずだ。人生、ずっと全身全霊を傾けるなんて、そんなことを求められていては、疲労社会は止まらないだろう。



4. 自分や周りの人たちの働き方について

最近、会社の同僚や上司を見ていて、このことについてさらに考えたというか、実感した。

というのも、私の上司はどうもこの「全身全霊で身を粉にして働く」のをなんだかんだで信仰しているという感じがある。そして、下の人たちにも同程度のコミットメントを求めてもいいと何処かで思っている気がする。これは、彼が人生の早い段階で家族を養う責任などが生まれたことで、少し前時代的価値観を受け入れざるを得なかったのも大きな理由だと思う。

彼の下にいると、仕事が出来る人は息つく間もなくどんどん新しいタスクやプロジェクトが課されてゆきます。それで、出来る人から疲弊していって、心身ともに壊れてゆき、辞めていく。。

もちろん上司自身もめちゃくちゃ働いてる。しかしその働き方は見てて心配になります。毎日栄養ドリンクやエナジードリンクをのんでいて…。多分彼自身が無理をすることに対する心身の負担に鈍感なのでしょう。

こういうマインドセットを変えるのはもう無理なのだろうか?とモヤモヤしたりする今日このごろです。しかし、希望があるとすれば、彼自身が最近自分でもうすうすと感じ始めているということ…!チームの下の人達が立て続けに辞めて定着しない…というのを繰り返しているので。

ワーママの仕事以外の部分での大変さはいったん置いておくとして仕事の部分だけで考えると、全身全霊で働くことを強要されないという事は本当に良かったなと思います。私自身、今回本を読めなくなる状態にはなったけど、残業が出来ないという部分のお陰で心身を壊すほどにはなってない。

でも、理想としては柔軟な働き方が小さいこどもをもつワーママに限定されずに誰しもが享受できる選択肢であればいいのにね、とは思う。人それぞれ仕事にフルコミット出来る(したい)時期もあれば、そうでない時期もある。

経営陣・管理職サイドとしては、どんな人でも頭数は1だし、1人の人材を最大限活用したいというのは分かる。そして、全員が全員自分自身の事をちゃんと考えて理解した上で「今の自分に必要なのはこういう働き方だ」と認識出来る訳ではないのも分かる。選択肢があることで「怠ける」人も少なからずいるから、そういう人たち対策としてある程度の厳しさやマネージメントが必要と考えるのも分かる。分かるんだけど、そういう人に合わせるがために会社としても本来もっと力を発揮できる層を潰すのも違う気がする。だから、上手なバランスを見つけていく必要があるよなぁと思う。

というか、実は私の会社ではワーママでなくても時短勤務出来るし、アルバイトという形でも良ければもっと時間を減らして働くこともできる。制度としては。(だからといって、スキルレベルに見合わないミニマルな仕事を振られるわけでもない)

だから、賢い私の先輩方は、実はアルバイトや個人契約的な感じで、フルタイムとしてはコミットせずに働き続けてる。今はそのデメリットとして、ボーナスでないとかは色々あるけど、でも本人たちは今の方が幸せそう。

今後、優秀な人たちを筆頭に、時短やアルバイトにシフトする人、辞めていく人ばかりになったときに会社は少しずつ変わっていくのかな?現上司も変わっていくのかな?と考えたりはします。

もうすぐ産育休なので一旦はしばらくは仕事からは離れるけれど、戻ってきた時にはどうなるかな、自分はどうして行こうかなというのは考えていきたいなと思ってる。


終わり


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