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強制収容所紀行文 -ビルケナウ-

 アウシュヴィッツ強制収容所から出発するシャトルバスで5分程の場所に、アウシュヴィッツII(ビルケナウ)収容所がある。1941年の秋に建設が開始されたこの収容所は、最終的に最大のユダヤ人殲滅施設となったのであった。1944年の春から夏にかけて移送されたハンガリーのユダヤ人も、このビルケナウ収容所に到着後、ガス室で大量殺害された。インターネット等々でアウシュヴィッツと検索すると、ビルケナウ収容所の象徴である進入門の写真がヒットする。輸送列車がこの門を潜るという行為は、それすなわち外界との接触を断ち、そして多くの場合は2度と出られないことを意味した。

 「なんて広いんだ。」ビルケナウに到着した僕の感想はこれに尽きる。奥にあるバラックが小さく見える。焼却炉の跡はずっと向こうに存在を感じられる。他の団体ツアー客の人影は指先ほどの大きさになった。ここでは到着したユダヤ人が「選別」を受けたのち、労働不適合と見做された場合は即座にガス室へ送られたという。正門からガス室へ、ガス室から焼却炉へ…。合理化の産物はこれほどまでにむごい。今では崩れた焼却炉で、かつては被収容者がガス室で殺害された人々の遺体を焼いた。時には同胞を。時には愛する人を。

 正門から800m真っ直ぐ進んだ場所に、犠牲者追悼碑がある。この追悼碑は1967年に立てられ、23もの言語で記されている。これまでに僕は、2019年4月と2019年8月の2度アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所を訪問したが、今でも真冬にこの地を訪れなかったことを後悔している。「殺人機械」のもとで、抹殺の対象となり、奴隷経済の要素となり、大量生産される産業技術の手段となった被収容者にとって、唯一持ち得た目的は、「(暖かくなる)春まで生きのびること」に尽きていた。ポーランドの厳しい冬の中で、希望もなく働かせられる彼らの気持ちを、勿論僕は完全に体験することはできない。しかし、僕はこうして当時に近い状況を自ら体感・想像することが一番の「追悼」ではないかと考えている。そして2度とこのような未曾有の虐殺を繰り返さないために必要な心構えを考察することが我々に課された使命であると感じるのだ。

 アウシュヴィッツ”的”なものは、実は身近に存在する。人間としての尊厳や権利を奪う機構(例えば少年院や監獄など)において、「社会に不適合な存在」=「異質なもの」をある枠組みの中に収容し「監視」するという風に囚人を抑圧するやり方は、アウシュヴィッツと共通のエッセンスを孕んでいる。強制収容所はナチスに特有のものでは決してない。国によっては今現在も稼働し続けている。我々はそういった事実も受け止めながら、この歴史から学ばなくてはいけない。

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