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強制収容所紀行文 -ザクセンハウゼン-

 ザクセンハウゼン強制収容所は、ベルリンから電車で1時間ほどの場所にある。こんな住宅街の中に、本当に強制収容所跡地があるのか?と疑いながら進んでいくと、突如としてその姿を表す。前回がブーヘンヴァルトだっただけに、かなりの衝撃だった。  訪問客は、アウシュヴィッツ・ビルケナウほどではないが比較的多かったように感じた。あちらこちらからスペイン語が聞こえたので、おそらくツアーか何かでやってきたのだろう。1人日本人を目にしたが、彼もまた僕と同じようにのんびりと展示を見ていた。

    • 強制収容所紀行文 -ブーヘンヴァルト-

       ワイマールからほど近い丘の上に、密かに佇むブーヘンヴァルト強制収容所。1937年から1945年に至るまで約280,000もの人々が収容され、収容所解放時には95%が第三帝国以外の地域から連れてこられた人々であった。ユダヤ人を始め、ソビエト連邦の捕虜、シンティ、ロマ、そして多くの子どもたちもこの収容所に連れてこられた。  アウシュヴィッツと同じく、ブーヘンヴァルト強制収容所にも焼却炉が導入された。殺害した遺体を効率よく「処理」できるこの機械は、エアフルトのTopf und

      • 強制収容所紀行文 -ビルケナウ-

         アウシュヴィッツ強制収容所から出発するシャトルバスで5分程の場所に、アウシュヴィッツII(ビルケナウ)収容所がある。1941年の秋に建設が開始されたこの収容所は、最終的に最大のユダヤ人殲滅施設となったのであった。1944年の春から夏にかけて移送されたハンガリーのユダヤ人も、このビルケナウ収容所に到着後、ガス室で大量殺害された。インターネット等々でアウシュヴィッツと検索すると、ビルケナウ収容所の象徴である進入門の写真がヒットする。輸送列車がこの門を潜るという行為は、それすなわ

        • 強制収容所紀行文 -アウシュヴィッツ Part3-

           アウシュヴィッツ強制収容所を散策していると、柵を挟んで「向こう側」に民家があるのに気がついた。以前から存在こそ知ってはいたが、まさかここまで目と鼻の先だとは思わなかった。アウシュヴィッツ所長ルドルフ・ヘスが住んでいた官舎だ。彼はまさにここで妻と子供たちと生活を営んでいた。  「ナチスドイツ」といったテーマに触れる際、ヒトラーやゲッベルスを例に、彼らは「サディスト」だとか、「異常」だなどという意見は必ずといっていいほど出てくる。無論、そのような意見を完全に退けることは不可能

        強制収容所紀行文 -ザクセンハウゼン-

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        • 強制収容所紀行文
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          強制収容所紀行文 -アウシュヴィッツ Part2-

           “ARBEIT MACHT FREI”(働けば自由になれる)というこの文言は、アウシュヴィッツ強制収容所だけでなく、他の強制収容所の門にも刻まれている。収容者は朝早くにここから労働へと出発し、夕刻にこの門をくぐり、一日を終えた。アウシュヴィッツ強制収容所博物館のツアーも、ここから始まるのである。  アウシュヴィッツには、ヨーロッパ全土から連れてこられたユダヤ人をはじめ、ナチスによって敵性分子と見做された人々が数多く収容された。遠方から貨物車に乗せられてアウシュヴィッツに到

          強制収容所紀行文 -アウシュヴィッツ Part2-

          強制収容所紀行文 -アウシュヴィッツ Part1-

           僕は2018年9月から2019年8月までの約1年間、ドイツ・ヘッセン州のフランクフルト・アム・マインにあるゲーテ大学で交換留学生として歴史学を学んだ。ドイツ史の中でもとりわけ第一次世界大戦後からの戦間期、そして第二次世界大戦終結までのナチ期を専門としている僕にとって、当地に赴き、現地のゼミナールに参加し、ナチスの研究をすることは幼い頃からの夢であった。  そもそも「ナチス」のような物騒なテーマに興味関心を抱いたのは小学2年生の頃であった。どの小学校にも置いてあるごく普通の

          強制収容所紀行文 -アウシュヴィッツ Part1-