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強制収容所紀行文 -アウシュヴィッツ Part1-

 僕は2018年9月から2019年8月までの約1年間、ドイツ・ヘッセン州のフランクフルト・アム・マインにあるゲーテ大学で交換留学生として歴史学を学んだ。ドイツ史の中でもとりわけ第一次世界大戦後からの戦間期、そして第二次世界大戦終結までのナチ期を専門としている僕にとって、当地に赴き、現地のゼミナールに参加し、ナチスの研究をすることは幼い頃からの夢であった。

 そもそも「ナチス」のような物騒なテーマに興味関心を抱いたのは小学2年生の頃であった。どの小学校にも置いてあるごく普通の伝記文庫『アンネ・フランク』を手に取って読んだのがそのきっかけであり、そこから『アンネの日記』や、伝記文庫『杉原千畝』まで読むことになった。母に頼み込んで「杉原千畝展覧会」なるものにも連れて行ってもらった。月日は随分経ったが当時の興味関心が風化することはなく、大学1年次の少人数ゼミナールで、卒業論文ではナチスについて研究したいと先生に打ち明け、学期末のレポート課題で「水晶の夜」をテーマに扱ったのを覚えている。

 今回、最初の目的地であるアウシュヴィッツ強制収容所について、概要的な側面から詳しく語る必要はないと思う。「アウシュヴィッツ」という固有名詞は残虐性を帯びて、度々一人歩きするほどにまで名高い単語になってしまった。例えば、「日本のアウシュヴィッツ」などと揶揄される施設も実際に存在するのである。

 しかし本来「アウシュヴィッツ」というその名は、当時ドイツの占領下であったポーランドの地名をドイツ語風に発音したものであり、クラクフから南西に約60キロ離れたオシフィエンチムという街のことである。13世紀から存在するこの古き良き街は、皮肉にも負の側面から世界に知れ渡る「遺産」としてその名を馳せることになってしまった。

 アウシュヴィッツを訪れる前日、収容所博物館で唯一の日本人ガイド、中谷剛さんのドキュメンタリー映像を見ることにした。そうでもしなければ、僕は他の多くの人々と同じようにアウシュヴィッツをただの「観光地」として訪れ、負の歴史を見るためだけの「記念碑」として捉え、博物館内で好き放題に写真を撮っていただろう。これは自分への戒めでもあった。名前すらも忘れられてしまった死者たち一人ひとりに、それぞれの人生があったのだ。「追悼の地」として訪れるべきこの場所で、彼らを愚弄するに十分なこれらの行為は、しかしながら実のところよく見られるということも、忘れるべきではないだろう。

Part2へ続く

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