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強制収容所紀行文 -ブーヘンヴァルト-

 ワイマールからほど近い丘の上に、密かに佇むブーヘンヴァルト強制収容所。1937年から1945年に至るまで約280,000もの人々が収容され、収容所解放時には95%が第三帝国以外の地域から連れてこられた人々であった。ユダヤ人を始め、ソビエト連邦の捕虜、シンティ、ロマ、そして多くの子どもたちもこの収容所に連れてこられた。

 アウシュヴィッツと同じく、ブーヘンヴァルト強制収容所にも焼却炉が導入された。殺害した遺体を効率よく「処理」できるこの機械は、エアフルトのTopf und Söhne社が製造していた。当時、ナチスのような力を持った政党と民間企業や共同体が結託するという構図は珍しくなかった。例えば、ガス室で使用された毒ガス「チクロンB」を製造していたIG Farben社が代表例だ(厳密に言えばIG Farbenの子会社であるデゲッシュ社製だが)。

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 僕が留学していたゲーテ大学の校舎は、元々はこのIG Farben社の建物であった。大学がその建物を使用する際、名称変更を求める運動が起こったらしいが、歴史を継承するため今でも“IG Farben Haus“と呼ばれている。僕が所属していた歴史学部はまさにそこが学部所属校舎だった。

 アウシュヴィッツ、ダッハウ、トレブリンカなどの強制収容所では“ARBEIT MACHT FREI“の文字が門に刻まれているが、ブーヘンヴァルト強制収容所の門には“JEDEM DAS SEINE“の文字が鉄格子に取り付けられている。この言葉は、日本語にして「各人は各人のものを」というローマ法由来の言葉で元来は平等と正義を表す意味で用いられていたものである。ナチスはこの言葉をユダヤ人差別に用いた。「各人は各人のものを」。つまり、ユダヤ人にはユダヤ人に相応しい運命が待ち受けている。この門を境として、ドイツ人が生きる運命、そしてユダヤ人や捕虜が生きる運命の境界になっていたのである。ハーバーマスが歴史家論争でエルンスト・ノルテと討論したように、修正主義 (Revisionismus) やホロコーストを何かと比較するのではなく、それを固有の事象として理解すること、比較などそもそも出来ないことを今回の訪問で感じた。そういった比較は生きたいと必死に願った犠牲者に失礼なのではないかと。

『ワイマール憲法 第48条 国家緊急権』

 ワイマールという、世界に誇る文化都市の近郊に強制収容所が建設されたことは非常に興味深いが、それ以前にワイマール政府によって制定された当時最も民主的と呼ばれたまさにその憲法を用いて、ヒトラーはナチス政権を獲得したということも忘れるべきではないだろう。

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