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戦争技術と組織の発展-②最強マケドニア軍とアレクサンドロス大王

古代最強のマケドニア軍

オリエント世界とギリシア世界、それぞれにおいて発展した戦争技術を統合し、最強の軍隊を完成させたのがマケドニアだ。ペルシアから騎兵や散兵、軽装歩兵の使い方を吸収し、ギリシアからは重装歩兵戦術を学んだ。

それぞれの戦術が発展した起源は、前記事を参照していただきたい。

最高のコンディションで歴代各国の軍がぶつかった場合、アレクサンドロス大王率いるマケドニア軍は、後の時代を含めどこよりも強かったであろうと言われている。おそらく、これより300年後に地中海世界を制覇するカエサルのローマ軍よりも強かった。中世ヨーロッパの時代では、どの国の軍でも歯が立たないのは間違いない。チンギスカンのモンゴル軍が出てくるまで、1500年近く勝てる軍はなかっただろう。

その最強マケドニア軍が、どのようにしてできたのかを見ていこう。

フィリッポス2世の軍事改革

マケドニアはギリシアポリス国家がひしめく地域の北に位置する辺境の国であった。ポリス国家のような寡頭政でもなく、民主政でもない、王政を敷いた領域国家である。同じ神を信じ、同じ言語を使う点においては、かろうじてギリシア文化圏に属すると言えるが、長い間取るに足りない国だと見られていた。

紀元前359年、そのマケドニアでフィリッポス2世が王位に就いた。彼は、軍事、経済をはじめとして、様々な改革を矢継ぎ早に実行し、弱小マケドニアをギリシア世界を統一する覇権国家に押し上げた。

マケドニアのファランクス

王になる前の若かりしフィリッポスは、当時スパルタを破り覇権国家となったテーベに人質として滞在していた。ここでギリシア式の密集陣形戦術の強みと弱みを吸収する。テーベの名将エパミノンダスが実行した用兵術も学んだだろうし、スパルタ式の伝統的戦術の限界も知った。

23歳で王に即位後、歩兵の改革に着手する。重装歩兵の密集体型を従来よりも大型化し、サリッサと呼ばれる6.5mもの長槍を装備させた。この長さは、スパルタ兵が持つ槍の約2倍にもなる。さながら迫りくるヤマアラシの壁のような陣容だった。これほど長い槍を扱うとなると、当然機動力は乏しくなり小回りも効かない。彼らに課せられた任務は独力で戦うことではなく、集団で敵を迎え撃ち、その隊列をくぎ付けにすることにあった。

サリッサを構えるマケドニア式ファランクス(想像図)

特殊部隊「ヒパスピスタイ」

通常の重装歩兵とは別に、「ヒパスピスタイ」と呼ばれる約3000人からなる精鋭軍団を組織した。正規の重装歩兵と比べやや装備が軽く、短い槍を持ち、機動力に優れていた。時には重装歩兵と組み合わせて使うこともできるし、騎兵隊を助攻することにも使える。状況に合わせて臨機応変に活用できる特殊部隊だ。

軽装歩兵と散兵

フィリッポスは、軽装歩兵と散兵を取り入れ、効果的に活用した。軽装歩兵は機動力に優れているため、敵の背後に回り込んだり、騎兵をサポートして敵を追撃したりできた。散兵は主に弓兵と投石兵で、長距離攻撃によって敵をかく乱した。こうした兵種の活用は、当時のギリシアにはなかった戦い方で、ペルシアとの戦闘経験から取り入れたものである。

マケドニア重騎兵

オリンポス山のすぐ南に拡がるエリアは、当時テッサリアと呼ばれていた。この地域は良質な馬の産地であった。フィリッポスはここを攻略し、大規模な騎兵隊を組織した。その中から特に選抜され、貴族の子弟によって構成された「ヘタイロイ騎兵」と呼ばれる部隊があった。おおよそ15大隊2000騎で編成されたこのヘタイロイ騎兵こそが、後にアレクサンドロス大王によって率いられ、世界を征服する槍となる。

諸兵科連合戦術の完成

今まで見てきたような兵種には、それぞれ強みや弱みがある。それによって役割や使いどころが変わってくる。例えばファランクスなら防御と戦列維持が得意だが、機動力がない。重騎兵なら、平地での突破力に優れるが、山地や攻城戦では使えないし、防御には向かない。軽装歩兵は機動力に優れユーティリティな使い方ができるが、近接戦には弱い。

フィリッポスが完成させたのは、一つ一つの兵種が独立して戦うのではなく、それぞれの兵種の強みと弱みを補い合いながら、一つの機能体として運用する「諸兵科連合戦術」と呼ばれるものだ。

ただし、想像してもらえればわかるが、この戦術を使いこなすのは非常に難しい。それぞれの役割を兵に理解させ、戦場の状況に合わせて互いに連携させる必要がある。フィリッポスは、こうした兵を常備軍として揃え、日常的に厳しい訓練を施すことで、戦術を洗練させていった。

さらに、こうした厳しい訓練の結果、マケドニア軍は圧倒的な行軍スピードを誇った。当時のギリシアでは、食糧や武具運搬のために、1人の兵士に対し複数名の召使を伴うことが普通だった。マケドニアでは、これを10名の兵士に対し1人の召使に変え、各自で食料や武具を運ぶことを科した。召使が減れば、消費する食料も減る。その結果、より少ない食糧で、長距離の行軍を可能にした。これが後の大遠征成功の鍵となる。

槌と金床戦術

こうしてフィリッポス2世の改革によってつくられたマケドニア軍を、不世出の英雄アレクサンドロス大王が率い、最強マケドニア軍が誕生した。マケドニア軍の戦い方には、必勝の鉄板戦術がある。

まず、中央に高い防御力を持つ重装歩兵を、両翼に突破力のある重騎兵を配置する。その重装騎兵を援護するように、軽装歩兵を置く。そして、役割を大きく左右に分け、主に右側が攻撃、左側は防御を担うこととする。最強のヘタイロイ騎兵は右翼に配置する。それに並べて特殊部隊「ヒパスピスタイ」を置く。陣形の前面には、散兵が配置される。これが基本陣形だ。

戦闘がはじまったら、軽装歩兵や散兵が投石や投げ槍で敵をかく乱する。その後、軍全体を押し上げていく時、右側から順に斜線陣を引いて衝突していく。右翼に配置された軽装歩兵やヒパスピスタイが敵にぶつかり、敵陣に間隙をつくる。そこ突くようにして、アレクサンドロスを先頭にヘタイロイ騎兵が突撃する。

陣の左側では、敵の攻撃をマケドニアのファランクスが受け止める。その間に突破した右翼騎兵隊が敵の側面や背後に回り込み、騎兵と歩兵で敵兵を挟み込んですり潰していく。

これを「槌と金床戦術」と呼ぶ。重装歩兵を金床とし、騎兵を槌(ハンマー)として、鉄となる敵を叩き壊すというわけだ。

アレクサンドロス大王

一人の人間の能力やパーソナリティによって、その後の歴史が大きく進むことがある。社会の状況が整ったところに英雄や天才が現れ、時代を50年早める、というような影響だ。ただ、仮にその人がいなかったとしても、遅かれ早かれ社会は変わっていたであろうと思えることは多々ある。

ところが、アレクサンドロスに限っては、この人じゃなかったらまったく違う歴史になっていたのではないかと思わせる。フィリッポス2世はマケドニア軍の基礎をつくった天才的な君主だが、彼のままであれば、小アジアを切り取ることはできたとしても、ペルシア帝国を滅ぼし、インドまで制覇するようなことはなかっただろう。常識的な感覚を持った王だから、あれだけの改革を着実に実行できたのだ。

アレクサンドロスは、漫画で描いたような英雄だ。自分の夢と国の大義のために、リスクを一切顧みず、ただ前だけに進んでいく。奇襲したり、策謀を凝らすなど、彼が卑怯とする作戦は取らない。兵と同じものを食べ、共に笑い、共に寝る。そして戦場では、王自らがヘタイロイ騎兵の切っ先となって、敵陣に突っ込んでいく。そして必ず勝つ。

もちろん英雄的なパーソナリティだけでなく、戦争能力が頭抜けていた。「槌と金床戦術」の最大の鍵は、敵の隙を見つけ、騎兵によってそこをピンポイントで突破することにある。刻々と変化する状況に対し、それぞれの兵種をどう動かし、どう隙をつくるか。どのタイミングで騎兵を突撃させるのか。戦場を正確に読み、即興で動かす能力が必要となる。

アレクサンドロスには、シミュレーションゲームのように戦場が上から見えていたのではないか。同じ視点から戦場を見た時に、各隊の配置、敵の動き、兵の士気を把握するなんてことは、神業としか思えない。ハンニバル、カエサル、ナポレオンなど、後世に登場する英雄たちとってもゆるぎないNo.1が、アレクサンドロスなのだ。

英雄か、組織か

世界をほぼ征服した後、アレクサンドロスは32歳の若さで死ぬ。彼が10年あまりで築いた帝国は分裂し、その後西から勃興していくのがローマである。

ローマ軍の強さは、英雄に頼らない組織力だ。もちろん大スキピオやカエサルのような英雄は出てきたが、時には大敗北を喫しながらも、あれだけの持続性を持って強者であり続けたのは、だれが率いてもそこそこの強さを発揮できるシステムを構築できたからだと言える。

英雄か、組織か。英雄によって持ち上げられた組織が、その後どう変化していくのか。フェーズが変わったことを察し、英雄に頼らない組織をどうつくれるか。現在の企業組織にも突きつけられている、永遠のテーマだ。

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