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戦争技術と組織の発展-①組織的戦争の起源から総合戦の完成まで

ホモサピエンスが他の動物、また他の人類に勝ったのは、大人数を組織的に動かすことができたからだ。それはアリやハチのように、一定のアルゴリズムで働く組織行動ではなく、目的を自分で定め、そこに対して集団を機能的に動かすシステムを作り出す能力のことを指す。

ネアンデルタール人は、私たちより脳の容積も大きかったし、身体も頑丈だったが、せいぜい家族単位での集団行動しか取らなかったらしい。対して、ホモサピエンスは数百、数千、数万の集団を形成するに至った。

やがて人間にとっての最大の脅威は、自分たち以外の人間となる。身の安全や財産を他者から守るため、あるいは生存に不可欠な土地や資源を確保するため、人間はより高度な組織的行動を発展させていった。戦争は人が持つ負の側面であり、同時に技術と組織を相互に発展させていくドライバーでもあった。

今回は、戦争技術と組織の歴史を取り上げてみようと思う。自分たちの存亡を賭けて、人間はどのように戦争技術を磨いていったのか。それを機能的に使うための組織をどのように発展させていったのか。

全体を貫くテーマは、①武器技術の革新、②それを実戦で活用するための軍隊組織の進化、③それを機能させるための国家システムの構築、この3つが噛み合いながら発展してく様を追ってみたいと思う。

組織化された戦争の起源

夜盗の群れのような戦闘行動と、組織化された戦争行動には、どのような違いがあるだろう。考えられるのは、目的のための作戦があること。指示を出す人がいることと、集団がその指示に沿って行動できていること。しかし、ちょっと頭が働く夜盗であればすべて当てはまりそうだ。

軍事的には、「陣形」があることと言えるかもしれない。縦隊、横隊、方陣、円陣を組んで動くこと。戦場はカオスだ。人は恐怖に追い立てられ、あっという間に群衆化してしまう。そうならないように、指揮官が集団を統制して、陣形を組み、規律的に兵を動かす。それが組織化された戦争だと言える。

その起源をたどると、最初の痕跡を旧石器時代の壁画に見ることができる。壁画には、縦に並んで整然と行進する兵士や、横に整列して一斉に弓を構える兵士、敵を包囲して側面攻撃する兵士などが描かれている。この時代には陣形を組んで戦う技術がすでに生まれていたようだ。

新石器時代の紀元前1万年ごろ、弓、投石器、短剣、槌鉾といった武器が発明された。さらに、こうした武器による攻撃から自衛するために、集落を要塞化し始めた。この時代の農耕集落の遺跡からは、大規模な防壁と堡塁、環濠などが発見されている。一般的には農耕の始まりにより富の蓄積が可能になり、都市化したというのが通説だが、ひょっとすると防衛のために集落を壁で囲むようになるのが先で、土地を安全に確保できたおかげで、農業の発見と動物の飼育が可能になったとも考えられる。どちらが先だったかという考古学的な証拠はあがっていない。

青銅器の時代

アッカド帝国(緑)とその周辺

紀元前3500年ごろ、最初の武器技術の革新が起きる。中近東で青銅冶金の技術が発見された。青銅器は石よりも鋭利な刃がつくれるだけでなく、様々な形に加工できたため、防御用の兜や甲冑も開発された。青銅をつくるには銅と錫が必要になる。特に錫は希少な鉱物で、しばしば遠方でしか手に入らなかった。そして、この時代の熱エネルギー源は木材になる。こうした資源を手に入れるために、より多くの兵士をより遠くへ派遣するための組織的な仕組みが発展していった。

この時代の伝承をまとめた『ギルガメッシュ叙事詩』には、ウルクの王ギルガメッシュが、はるか遠方の杉林を支配するフンババを倒しにいく物語が記述されている。また、エジプトとパレスチナをつなぐシナイ半島では銅鉱石が採掘されたため、しばしば戦いの舞台となった。

こうした軍の遠征を可能にするために圧倒的に重要なことは、兵の食糧をどう確保し運搬するかだ。

前2250年頃、アッカドの王サルゴンは、5400人あまりの常備軍によってメソポタミア全域を征服した。この時代はまだ計画的な食糧供給のシステムが確立しておらず、進路にある農業地帯をことごとく略奪し、国土は荒廃、住民は飢餓に瀕した。

やがて、規則的な納税によって物資挑発を一定に固定化することで、軍による破壊的略奪を避けるようになった。軍としても確かな食糧供給が保証され、農民の側としても、完全に破壊されるよりは毎年一定割合を年貢として引き渡したほうがましだった。

こうしたシステムを管理するために、文字による記録、法典の制定、それらを管理する官僚組織が発展していった。シュメール人によって楔形文字が発明され、メソポタミア初の覇権国家であるアッカド人は、この楔形文字を拝借して行政管理を行った。アッカドに続く覇権国家バビロニアでは、有名なハンムラビ法典が制定された。

戦車の時代

戦士姿のラムセス2世

青銅器に次ぐ武器技術の重要な変化は、戦車における技術革新だった。戦車自体はそれ以前から存在したが、前1800年頃に二輪車輛のニューモデルが発明された。この戦車は戦場を高速で駆け抜けることができ、振動も少なく、乗りながら矢を雨あられと浴びせることができたため、戦闘時の機動力と火力が飛躍的に高まった。

これを可能にした技術革新は、スポークの使用によって軽量化された車輪と、摩擦を減らしたハブと車軸の設計だった。これには高度な技量を持つ専門の職人が必要となる。

そんなわけで、戦車はフェラーリ並みに高価であった。加えて戦車を引く馬を養うには、さらに費用がかかった。よって、少数の戦車エリート戦士層が権力を持つ社会システムが生まれた。相対的に君主の権力は縮小して、君主とエリート戦士層が主権を分かち合いながら各エリアを支配する封建的な国家が誕生した。

前1500年頃のエジプト新王国では、ヌビアからもたらされる黄金で戦車戦士を雇い入れ、他の競合相手を圧倒する軍事力を誇った。また、同時代に強力な戦車兵を率いて小アジアから上部メソポタミアまで勢力を広げていたのが、ヒッタイトだ。両国がぶつかったのが、この時代を代表する大会戦「カディシュの戦い」である。

前1280年頃、シリア北部の領有をめぐり、ラムセス二世率いるおよそ2万のエジプト軍と、1万7000人のヒッタイト軍がぶつかった。戦闘は概ねヒッタイト軍に有利に進んが、次第に膠着状態に陥り、最終的に両国は和平を結んだ。この時の戦闘の様子から平和条約の内容まで完全な状態で記録が残っており、当時の戦略と戦術を知ることができる。

この時エジプト軍は4つの師団に分かれて進軍した。軍を構成したのは、戦車隊、弓兵、槍兵および斧使いであった。こうした多岐にわたる兵科を効果的に組み合わせ、万単位の兵を作戦に沿って動かす組織系統が、高度に発達していたことがわかる。後の歴史を見てもこれに匹敵するほど組織化された戦争を見出すのは難しいほどだ。

鉄の時代

デルタの戦い。「海の民」と戦うエジプト第20王朝のファラオ・ラムセス3世

紀元前1200年、地中海東部に大規模な社会変動が起こった。ギリシアに広がっていたミケーネ文明と、小アジアのヒッタイトは消滅してしまう。エジプトも大打撃を受け衰退に向かう。シリアからパレスチナ地方にあった交易都市国家群もことごとく破壊された。「前1200年のカタストロフ」と呼ばれる現象だ。原因は諸説あり、気候変動による飢饉の慢性化、大規模な地震、それに伴う「海の民」と呼ばれる西側からの民族移動などが挙がっているが、結論は出ていない。あるいはそれらの複合的な現象かもしれない。

通常国が亡びる時は、その後継となる新たな国が興り、文明を引き継ぐものだ。だがこの時は引き継ぐ者もなく文明ごと消滅し、ギリシアに至っては文字も忘れさられ、環地中海エリアは暗黒時代へと突入する。

この時代を境に、武器技術第三の変化が起きる。今まで小アジアの一部で行われていた製鉄技術が、大国が崩壊することで各地に普及し出した。熱した鉄に炭素を加えることで、鋼のような硬い鉄が精製できる技術だ。このことが戦争の民主化をもたらした。鉄は青銅と比べありふれた資源であり、加工も簡単で、段違いに手に入れやすい。そこら辺の農民が鉄製の武器と防具を手に入れ、戦車を独占していたエリート戦士層を圧倒し、その結果、封建的社会構造が壊れることになった。

こうした製鉄技術の普及で力を得たのが、文明の外縁にくらしていた小規模部族だった。ヘブライ人、ペルシア人、ドーリア人など、多くの民族が歴史の表舞台に現れ、小国家が乱立し、野蛮で無秩序、ある意味平等な時代が幕を開けた。それによって、大国による組織化された戦争は、一時的に後退することとなる。

帝国の時代

アッシリアの版図の変遷

やがて小国家乱立の時代から抜け出し、エジプトを含むオリエント世界を統一して、初の帝国国家を築いたのがアッシリア、その後に続くペルシア帝国である。この後の歴史において数多くの帝国が勃興したが、そのひな型となる組織機構を築いたのはアッシリアである。多民族を内包する広大な領域を効率よく征服、支配するための軍隊組織と行政機構をつくりあげた。

帝国軍隊の特徴は、槍兵、弓兵、投石兵、工兵、戦車隊、海軍など、多種多様な兵科を複雑に組み合わせて運用した点にある。そして、アッシリアは騎兵を採用した初めての国でもある。この時代は鐙がまだ発明されていなかったため、馬にまたがって弓を扱うのは一般的でなかった。アッシリアでは、あくまで補助的な役割に過ぎなかったようだ。

続くペルシアでは、騎兵隊は戦場において決定的な役割を果たした。歩兵隊を中央に配し、騎兵隊を両翼に置き、敵の側面をついたり背後に回り込んだりする戦術がスタンダードになる。この騎兵の圧倒的な機動力を活かした戦術の型は、ナポレオン時代まで変わらなかった。

また、攻囲戦の革新的技術を身につけていたことも見逃せない。アッシリア軍は、破壊槌や移動式の攻城塔を使い、要塞都市を攻め落とした。そうした技術を活用するための専門化された工兵がいた。

こうした複雑で大規模な軍隊組織を維持するための国家システムも高度に発展した。例えば、馬の計画的な調達。アッシリアは遊牧民族ではないため、最初から馬がそこにいたわけではない。軍馬を絶えず補給し、飼育するための官僚機構が整っていた。

圧倒的な兵力を支えるために全域に渡って徴兵制が敷かれ、動員可能な軍の規模は数十万規模に達した。さらに、その大規模な軍を運用するための徴税システム、兵站組織、公道の整備もなされた。兵站を確保するために各地に要塞を築き、そこに食糧や装備を蓄えていた。前5世紀ギリシアに遠征したペルシアのクセルクセス王は、王都スサから小アジアの西端まで伸びる「王の道」を数十万の軍で向かっている。その際に、進路上の国土が荒廃したという記録はない。アッカド王サルゴンの時代の場当たり的な強奪方式と比べ、圧倒的にサステナブルな戦争システムが確立していた。

ちなみに、アッシリアが取った多民族支配の総合戦略は、徹底した恐怖支配であった。反乱に対して身の毛がよだつほどの報復措置を取り、完全に破壊され更地になった都市もあった。また、土着の民による連帯を防ぐために、しばしば住民の強制移住が行われた。しかし、この支配は長続きしなかった。最盛期の王アッシュールバニパルの死後、20年あまりで滅亡する。

その遺産を引き継いだペルシア帝国は、諸民族、諸文化に対して寛容な政策を採った。バビロンに移住させられていた異民族を解放し、捕囚中のユダヤ人を解放し、エルサレム神殿の再建を許した。

この辺りの関係は、中華における秦と漢に似ている。地域は違えども、歴史は似た道を辿る。

もう一つの潮流

「前1200年のカタストロフ」後の世界の片隅で、ひっそりと独自の戦争スタイルを発展させていた民族がいた。ギリシア人である。そのスタイルとは、重装歩兵による密集陣形戦術である。これはよく考えると、非合理的で、非人間的な、オリエント世界に比べると組織的に未発達な戦術と言わざるを得ない。

まず兵科が1つしかない。戦い方は正面衝突のみを想定している。平野にしか向いていないので、敵味方示し合わせたかのように平野に集合し、スクラムを組んで正面からぶつかり合う。このまるで運動会のような戦術が、なぜギリシアで発展したのかは謎だ。単純に、ミケーネ文明崩壊後、組織的な戦争の知恵が失われ、鉄製の盾と槍を活かした独自戦術が発展したところに、それを強化する国家システムと倫理観が定着してしまったとしか考えられない。

非合理的なものでも、一度システムとして定着したものは容易に変わらない。彼らは、ペルシア軍との接触後も、かたくなにこの戦争スタイルを守り続けた。むしろペルシア戦争での成功体験がゆえに、そのスタイルを強化してしまったのかもしれない。

重装歩兵が単体として極めて強かったのは事実だ。前400年前後、スパルタ兵を中心としたギリシアの傭兵部隊がペルシアの内乱に参加した。敵地においてギリシアの重装歩兵団は無敵の強さを発揮した。だが最終的に軍全体としては、決定的な勝利を収めることはできなかった。彼らは自身の弱点を認識した。側面攻撃に弱いため、正面からの突撃戦でしか力を発揮できないこと。このような遠方での戦争では、大規模な兵站組織を持つ必要があること。

この軍にはアテナイ人のクセノフォンが参加していた。彼はこの遠征記を『アナバシス』という著作にまとめ、後のギリシア人の戦い方に大きな影響を与えることになる。その中には、この後世界を変えることになる、あの英雄も含まれる。

技術と組織の相互作用

ここまで見てきたように、まず武器技術に革新的な変化が生まれ、それを実戦で扱う軍隊組織が発展し、それによって国家システムにも構造的変化が生じた。この3つの要素を兼ね備えた強国が、その時代を支配してきた。

これは、企業組織にも当てはまる。現代において重要な技術は、デジタル技術、バイオ技術、脱炭素時代の次世代エネルギー技術などがあるだろう。特にデジタル技術はあらゆる産業に影響を及ぼす。こうした技術を取り入れる時、それを扱うための実行部隊を組成する。そして彼らを機能させるためには、企業組織全体のシステムが噛み合う必要がある。ポリス国家のまま、騎兵を使いこなすことはできないのと同様、組織を変えずにテクノロジーだけを取り入れても、うまく活用することはできず、既存のシステムと矛盾を抱えてしまうだろう。

両世界の統合

オリエント世界で発展した組織的な総合戦術、ギリシア世界で独自発展した重装歩兵による密集戦術。この両者を統合し、ついに組織的な戦争技術を完成の域まで高めた国が現れる。その国の軍団は、やがて不世出の天才に率いられ、空前の大帝国を築く。

次回は、ついに現れた最強の軍団、マケドニア軍についてまとめてみたい。


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