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悲しみの大小

新型コロナウイルスの影響で栃木県郡市町対抗駅伝(以下郡市町駅伝)の中止が決定した。

同大会は栃木陸上競技協会、下野新聞などが主催する駅伝大会で、各郡・市・町単位でチームを構成して中学生から社会人が襷を繋ぐ男女10区間(往路5区間・復路5区間)で争われる(Wikipediaより引用、一部補足)。

テレビ・ラジオ中継はもちろん、大会前はメインスポンサーの下野新聞が大々的に特集記事を組み、県民の注目を集めるビックレースでもある。

2016年大会より。中学→高校とチームメイトだった彼と、この日は地元チームのユニフォームを着ての襷渡し。

競技を始めて11年が経ち、数多くの試合に出場してきたが、郡市町駅伝は私が最も思い入れがある大会である。

なぜなら、

出場資格を得られる中学1年次から今年まで,9年連続で出場してきた大会だからだ。

しかも、

1998~9年生まれの選手で中学1年から出場し続けているのは県内では私のみなのだ(私調べ)。

もちろん、箱根駅伝やニューイヤー駅伝の直後であるため、意図的に出場を回避する有力選手も多いし、出場するにあたってはチームのレベルやそのときの調子などの様々な要素が絡んでくる。

いや、そもそも連続出場など自己満足でしかないのかもしれない。

しかし。

しかし、である。

現在、東洋大学の最上級生として活躍する大森龍之介選手・吉川洋次選手や、
城西大学・拓殖大学のキャプテンとしてチームを牽引する菊地駿弥選手・石川佳樹選手にも出場回数では勝っているということもまた、紛れもない事実なのである。

(※どうか鉄紺ファン・城西大・拓大ファンの皆様、怒らないでください。)

競技者としての第一線を退いた今年も、チーム内の選考を勝ち抜いて10年連続の出場を果たすため、コロナ禍の中でも来年の1月に向けて練習を続けてきた。

しかし、本日付の下野新聞朝刊で中止の報道がされた。

ショックである。極めて。

「アスリート」と自称できるほどの練習はしていないし、練習・大会後のストロングゼロを楽しみに走っているような私でさえ。

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郡市町駅伝の中止は非常に悲しい。

ところで、私たちはよく「大きな悲しみ」などという言葉を常日頃使っている。新型コロナウイルスの影響によって多くのイベントが中止になったが、特にインターハイ・甲子園が中止になった際に、マスコミはこぞって「大きな悲しみ」という表現をした。

私は、

「悲しみの大きさ」を客観的に測定することなど、絶対に不可能だと思ってる。

なぜなら、物事の感じ方は人それぞれだから。世の中には親が死亡しても「悲しい」と感じない人もいるかもしれないし、絶望の果てに後を追ってしまう人もいるかもしれない。

だから、暴論じみているが、私が悲しいと思ったらそれは悲しいのである。

高校生の無念は計り知れないが、郡市町駅伝が中止になった私の悲しみもまた、計り知れないのだ(自分で言うことではないことは重々承知しています)。

私自身、引退後に陸上競技にこれほど感情を動かされるとは思っていなかった。間違いなく今朝の朝刊を見た時のショックは今年最も大きいものであった。

やはり、郡市町駅伝はアイデンティティだったのだ。地元紙に自身の名前が載り、当日は市名の入ったユニフォームを着て、個人名ではなく市の名前を呼んで応援してもらえるこの大会に出場し続けることは、私が走る理由の一つだったのだ。

***

新型コロナウイルスが終息の気配を見せない中で、私たちはつい物事への影響を大小で測定してしまう。「悲しさ」以外も。

そんな中だからこそ、冷静に考えたい。
本当に大小はあるのか、と。

今、地球上にいて新型コロナウイルスの影響を全く受けていない人はかなりの少数派だと思う。だったら影響の大小を測ることに何の意味があるのか。多くの人々が不自由さを抱えるなかで、「私は辛い!あなたは楽!」と主張することは歪んだストレスの解消法でしかない。

誰しも、未知の病によって変容した社会の中を必死に生きている。いつかこの非常事態の終息を信じて。

Mr.Childrenは
「誰も皆、悲しみを抱いている
だけど素敵な明日を願っている」
と歌っている。

素敵な明日は、いつ来るのだろうか。

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