私の人生の主導権は私

ここ1ヶ月くらい、なんとなく毎日考えていること。別に深く悩んでいる訳では無い。『きっと何が正解なんてない』とわかっているから。だけど、どうしても明確な答えが欲しい。多分【自分の価値観で考えた時】の【明確な答え】ってのが、今の私が1番求めるもの。考え始めて1ヶ月以上も経ったことから、なんとなく自己分析が出来始めた気がしている。その為、このタイミングで少しブログに残しつつ、更に自分の思考整理がしたいと思った。今回は、先に言ってくと、めちゃめちゃ長くなった。いつもよりも更に長いので、読みにくい点も多々あると思う。

具体的に一言で説明すると、【自分が出会った人・関わる人との距離感】である。【1人の人間同士としての心の距離】と【自分から見た関係性としての心の距離】について。この2つの感覚を【意識的に分けた時に生まれる違和感】が、今の私にとって未解決な課題。関係性としての思い浮かべるのは、主に『家族・友達・会社の人』だ。約1ヶ月前に私が悩んだことも【会社の人との距離感】だった。そして、それと並行して直近1ヶ月の話。私はまた【友達との距離感】を考える出来事があった。

先日、『ちょっと友達と話したい』気分になって電話した。今回の場合は、【完全に暇電】だ。『なんとなく久しぶりだったこと』と、『仕事帰りの時間帯で電車が遅延したこと』により、私は、そんな『大したこともない話をしたいだけ』だった。遅延した電車待ちの10数分の間の話。まず最初は、悪天候が理由の遅延だったために、互いの現状を話した。そして次の話題が特にある訳でもなく、どちらかともなく、いつも通り『今日の夜ご飯』とか『最近の自炊事情』についての話になった。ただ、私と友達は、【家事】に対する価値観がまるで正反対だ。以前のブログにも投稿したことがあるように、まるで【正反対】な2人。だけど『互いの意見をぶつけ合える』というか、『話ができるからこそ、互いの違いを認め合える』みたいな気持ちが、私の中にはたぶんあった。だから、【正反対】な話でも『きっと成り立つと思っていた』し、『互いの違いが面白くも楽しくも』あった。
ところが、その時の電話では、私の中で【何か違和感】が生まれた。話の内容は、きっと『これまでの繰り返しにもなる』ような、【互いの異なる価値観から成り立つ】こと。『既にお互いに知ってるわ』っていうような話。私はたぶん、だからこそ【違和感】ってなった。友達から言われるだけじゃなくて、私ももちろん言い返した。しかし、その後に更に言われた追加の内容が、私は笑えなかった。友達は、言いたいことを言うが余り、『私の彼をバカにした言い方』をした。散々これまでも繰り返してきた会話を、また繰り返した結果、この始末。こんな話を今後続けたところで『きっと何の意味もない』って直感で思った。その後、間もなくして電車が到着したので、電話を切った。電話の切り際には、「帰ったらまた電話しよう」って言われたのだけれど、私は、何か曖昧な反応をして言葉を濁した記憶がある。そして、そこから3週間程、気づけば何も連絡を取っていない。

『一緒に時間を共有するのが楽しい』はずだった【友達】なのに、何かと【違和感】に発展してしまうようになった。だからと言って、『もう友達じゃない』とかは微塵も思わない。だけど、『んなら、また近々連絡を取るか、遊ぶのか?』と聞かれたら『返事に困る』ってのが私の本音。逆に、友達の立場になって少し考えてみても、『友達は友達』だって割り切れてしまう。そもそも、『物事をそんなに深く考えるタイプの子ではない』し、『今のような連絡が数週間ないくらいのこと』を『わざわざ気にしている程暇な人間では無いだろう』と思っている。だから、つまりは、【私の問題】だし【私の話】だと実感している。

『私が関わる人に対する、人それぞれの丁度良い距離感』について、再び考えるきっかけになったのは、間違いない。『私にとって友達ってなんなんだろう?』『会社の人って何だろう?』『家族ってなんだろう?』みたいなことが、頻繁に頭に浮かんだ。1ヶ月以上も考えてみて思うのは、結局のところ『友達は、昔のような友達の距離感では無い』ってことかもしれない。『同じ学校・部活・通学団だから友達』とか『放課後一緒に遊ぶから友達』とか『住所が近くて会えるタイミングが多いから友達』とか。『きっとそんな話じゃないんだ』ってことを、改めて考えさせられた。また、『会社の人だって、それぞれが職場を通して出会い、ビジネスの組織の一員として成り立つ関係なんだよね』って改めて考える。その為に必要なこと、求めることは人それぞれ。『きっと、仕事があっての人間関係だって話なんだろう』って感じ。正直、『そりゃそうだ』って話なんだけど。そう考えると、それ以上に『互いの距離を縮める意味』について、【もっと自覚と責任を持ちたい気持ち】になる。
友達も、会社の人も、言ってしまえば、『互いに共通する組織や環境に属した中で繋がる』人達。もちろん、『自分がその中で過ごす時間が長い以上、自分自身で居心地を良くしたり、そのための良好な関係を築いたりすること』は【当たり前】の話だ。だけど、【互いにとって共通の組織や環境の変化】があれば、【互いの関係性も変化】していくものだよね?って話。正に、私の場合、学生時代を終えたことにより、【当時の友達関係からの変化】は、『もう既に起きていた』って自覚もある。そして、その結果、『互いに共通するものが何も無くなった』と分かっていながらも、【友達】と胸を張って呼べる数人程は、確実にいる。
友達については、『相手の存在を求める気持ちの有無がポイントだ』って、なんとなく思う。決して【依存】ではなく、【自分の意思で相手を求める気持ち】ってのが大前提。『この友達に相談したら解決するだろう』とか『この友達なら私に付き合ってくれるよね!』みたいな【依存】とか【期待】する感じは、きっと違う。『相手の反応に左右されることなく互いに成り立つ』とか『相手への尊重の気持ちを持ちつつ成り立つ』とかが、今の私にとって大切かなって思うこと。たぶん、『そんな風に互いに思う気持ち』が無ければ、『更にその先に繋がる気持ち』は持てなくなる気がした。

今回の友達の場合は、『そもそも私自身に足りていなかったこと』も自覚することが出来た。【暇電】って時点で、【依存】とか【期待】に近いものを若干感じる。それに、『相手の反応にまんまと左右されたのも私なんだ』ってことだ。『そもそも相手がそういうタイプの友達だ』ってことを流せなかった。『長年友達をやってきたはずなのにって思う』が故に、【そんな友達を受け入れられない自分】に対しても『嫌な気持ちになった』訳だ。今になって、『なるほどな』って納得する。友達のことを変えることは、私では不可能だ。『友達のことを友達だ』って思う気持ちが私にあるなら、『私が、いちいち左右されること自体が子供なんだ』って気持ちになった。反対に、『そんな友達は友達じゃない』って私が言えるなら、スパッと解決する話。どっちつかずに中途半端な気持ちだからこそ、余計に自分の答えが出ない訳だ。んならもう、『今はそれが私だ』ってことで『時間が解決する方向に委ねてみようかな』って思うことにする。

結局のところは、『私が友達をどう思うのか』『私がどうしたいのか』『私が友達とどうなりたいのか』ってこと。【全ては私が主導権】でいいよねって感じだ。きっと友達も同じ。『友達が私をどう思うのか』『友達がどうしたいのか』『友達が私とどうなりたいのか』って話で、【友達が主導権】だと私は考える。だから、互いのタイミングで次のきっかけがあるまでは、もしかしたら疎遠になるかもしれない。だけど私は、それでもいいと思えるようになった。これまで、『友達がいなければ何にもできない・やる気になれない』って思って生きてきた私だよ。そんな私が、『自分で自分を満足させるために今を生きている』ってことだもん。それが出来るようになるってこと自体が、『友達に【依存】したり【期待】したりしなくなった、私の成長だ』って実感出来る。

家族についての私の思考は、『自分が選択した訳ではない』って正直思う。だけど、友達や会社の人と違って、『自分の意思1つで簡単に離れられるものではない』ってことも同時に思った。血縁関係とか戸籍とか、『自分が生まれる前から決まってしまう事実』だってある。そして、自分が結婚すれば、『自ら家族を作ること』になり、『同時に責任が生まれる』訳だ。『決まっていた事実だから』って『幸せが保証されるなんてことでもない』ってのが、個人的に思うのも実際のところ。『家族の中でも合わない何か』ってものを、私も既に実感している。しかし、だからといって、【自分と違う性格や考え方】の親や兄妹達を相手に、『私自身がどう向き合うのか』って考えることが増えた訳だ。それが、【互いの心の距離を縮めること】だと考える。正直、『そんな風に思える相手ってのが家族なのかな?』って今は思う。それこそ、『時間が解決する』みたいなことも実際あったし、『お互いに気になる【すれ違い】を微調整していく』感覚もある。【決して簡単なことでは無いこと】なのに、【それを承知の上でも大事にしたい気持ちが勝る相手】がいる。『私だったら、そんな相手は家族がいいな』って思う気持ちがある。
家族が、友達や会社の人と違うことは、『そもそもが家族っていう1つの環境に、既に属しているのが現実ってこと』だと私は考える。『自分でも、家族の誰かでも、互いに何が変わろうとも、どんな形であろうとも、家族なんだよね』って思う。『決して、自分の思い描く理想だけが家族な訳じゃない』ってことだ。

友達も会社の人も、『お互いに気になる【すれ違い】を微調整していく』気持ちを『どれだけ自分が求めるのか』って問題でもあると思う。『自分が属する・求める環境や組織』は変わりゆくものなのに、出会った事実や、同じ時を過ごした事実は変わることはない。そこから生まれる関係性に対して『友達だから』『会社の人だから』って考えるのも自分の問題。『家族』だってきっと同じ。『家族だから』って考えることで、『それに縛られ過ぎてしまう』と、『結局は自分が1番苦しくなるんだ』ってこと。家を出た頃の私が、身をもって学んだことでもある。

今振り返って見ると、私の中で、『家族ってこんなもの』『友達ってこんなもの』『会社の人ってこんなもの』っていう【思い込みが強かった】のかもしれない。『家族と距離を取った経験がある』からこそ、『家族』に対する思い込みは薄れたと思う。しかし、その反面、友達や会社の人との距離感が、更に『近くなった』とか『自分から求めるようにった』とかが実際ある。それなのに、今度は『自分から友達と距離を取ることを受け入れている』自分がいる。会社の人に対しては、私の思い込みが故に、【なんとなく美化したい気持ち】になっている気がした。たぶん、【私の勝手なイメージ】が、だんだんと【強い思い込みへと変化】していった訳だ。そんな『自分勝手な思い込みと現実のギャップが生じた時』、今正にそんな時だからこそ、『私はモヤモヤしている』と思った。

そう納得することができると、『なんだ、結局は
私が原因じゃん』って感じだ。でも本当に納得する。『私が勝手に思い描いていた距離感をベースにしか、考えることが出来なかったから』だ。それは、紛れもなく【私自身の問題】だ。だけど実際は、そうじゃない。【常に、目の前に起きている現実】に対して、『私がどのように反応するのか』ってことが重要な訳だよね。『自分の価値観をベースにしか考えられないようじゃ、まだまだ子供だ』って本気で反省する。
【自分が出会った人・関わる人との距離感】なんてものは、そもそも、『私の思い込みが強すぎるが故の悩みだっただけ』ってことかもしれない。私にとっての【友達や会社の人のイメージ】を、『勝手に美化し過ぎていたんだ』って思う。『でも実際はそうではなかったっていう事実がある』だけ。私自身が、再び同じ友達を求める時までは、『それ以上に考えたってどうしようもない』って話だ。会社の人に対しても、『自分の価値観・感情をベースに考えるのはやめよう』って気持ちになった。

家族・友達・会社の人含め、【私が出会う人全てに共通すること】を、私は今回見つけた気がする。それは、『相手に対する私の印象は、全て私の個人的な感情に近い』ってことだ。そんな【私の個人的な感情】は、『私の今後の行動を左右するものではある』けど、『相手に対して否定的ことを言ったり思ったりするのは、筋違いな話なんだ』って結論。つまりは、【私の個人的な感情】により、『私が今後、相手とどう接していくのか』っていう話。それが、【相手との距離感】ってことだと私は考える。だから、要は『私次第で解決できる話なんだ』ってこと。どんな関係性であろうと【人と人】なことには変わりは無い。今回の私は、【自分勝手に思い描く相手との関係性】があったが故に【相手に合わせた心の距離感】を、『無理にでも調整しようと抗う自分』にモヤモヤしていた訳だ。これからは、【私が相手をどう思うのか、どうしたいのか、どうなりたいのか】って気持ちの問題。【全ては私次第】で【相手との丁度良い距離感】を『自分で作っていくことが必要なんだ』って話だ。今更な学びなのかもしれないけれど、私は、また1つ新しいことを学んだ。それに、長くはなったけれども、私なりの思考整理出来たので満足している。

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