私が主語、私が理由

昨日、私が悩んでいたこと。それは、夏休みの予定について。一昨日、旦那から、「お盆の連休に2人で出かける予定を考えている」って話があった。私はぶっちゃけ何も考えていなかった。というか、自分の予定さえも曖昧で、今回は珍しく、友達と出かける予定もしていない現状。そもそも、やっぱり『私発信で予定が立つことが、きっと多かった』のだと実感する。今年の夏の連休は、私は、『家の中の断捨離と片付けをメインでやりたい』と思っている。しかも、『私のペースで、私の時間を大事に使いながら』進めたい。なので、わざわざ私から友達を求めることはしなかった。

そんな私の話はさて置き、旦那と出かけようと思ったのだけれど、ピンポイントでの予約は無理だった。夏休み期間だし、ちょっと急過ぎたみたいだ😂そのため、他に何をしようか、具体的な話は先送りになった。結果、そんな話のやり取りがきっかけで、私は昨日、自分の頭を忙しくすることになった。

というのも実際、夏の連休を2人で何をして過ごそうかと、私も考えようと思った。だけど私は、そもそも何も考えていなかった訳で、これと言って具体的にしたいことが無い。『普段の生活に満足している』が故の、『非日常を求めるのが少し苦手』な1面だ。そして、しばらく考えた結果、「フォトウェディング」に辿り着いた。

何故「フォトウェディング」に辿り着いたのかと言うと、『2人で出かける予定に悩むくらいなら、その時間を利用して母親の望みを叶えるのはありじゃない?』と思ったからだ。私達夫婦は、「式も挙げない、旅行もしない、フォトウェディングもしない」と散々言ってきている。別にそれが、『私達夫婦の意向なことは間違いない』のだけれど、【母親や、昔に世話になった親族】のことを考えた時に、『本当にこれでいいのだろうか?』という気持ちになった。正直、どこまでいっても『私が「フォトウェディング」を本気で望む訳では無い』ってのはあった。だけど『思わぬ親戚からお祝いを頂いた』ことや、『ウェディングの私の姿を楽しみにしている人達がいる』ことで、何となく私の心が揺らぎ始めた。

そして、具体的に「フォトウェディング」を調べ始めたのだけれど、大変悩ましい気持ちになった。そもそも、私が思っていたよりも日にちを要する。日時だけでなく、場所や服装、具体的なイメージを持って念入りに打ち合わせをするケースもあるみたいだった。『近くのお店でパッと予約したらその場で出来る!みたいなイメージ』で考えてみたのだけれど、到底そんな感覚ではなさそうだ。だから逆に、『そうまでしてやりたいのか?』と自問した。私は悩んだ。
けれど、【悩む理由が自分ではないこと】を自覚した。『母親が望むから』『親族が楽しみにしてるから』『母親や親族からお祝いを貰ったお返しの気持ちで』みたいな。それに、【自分が理由でない】にも関わらず母親や親族に「フォトウェディング」を見せたとして、きっと「良かったね」と言われると思った。私は、それが嫌だと思った。以前の投稿と思考は同じ。

そんな気持ちばかりだったので、「フォトウェディング」に対する自分の気持ちも、なかなかついていかない。『めんどくさい』とか『やっぱりそうまでして望まないな』とか、【裏腹で矛盾した感情】ばかり浮かんだ。逆に、『せっかくやるなら、自分に素直な気持ちを持って叶えたいな』と思った。また、今このタイミングで「フォトウェディング」を実際に行ったら、私自身が『母親や親族を理由』にすると思った。だから、結論、そんな曖昧で【主語が相手】な自分の状態では『私はやらない!』と、私自身が決断した。

私は【極端な思考の持ち主】なので、『自分との向き合い方は難しい』と我ながら常々思っている。ただ『周りの人達のことを気にする』とか『もしかしたら私だけかもって不安になる』とかは、本当に減った。それなのに今回悩んだ訳だけど、最終的には『そっちの方が曖昧な思考だ』と思うようになった。
【周りの人達】は、私に対して、『言いたいだけ』『思っているだけ』で、本当のことなのかもしれないけど、【私に対して実際に何かする訳では無い】と思う。『期待する』『楽しみにする』は、相手次第。でも実際、【100%周りの人達全員を満たす保証】は、どこにもないと思った。ならば、結局のところ『私はどうしたい?』ってなった訳だ。
その答えは『母親や親族の満足した反応を望んでいるだけじゃん?』ってことだった。つまりは、私が「フォトウェディング」自体を『本気で望んでいない』ってことが、改めて明確になった。その反対はたぶん、『周りの人達に、どんな反応をされようとも私は「フォトウェディング」がしたい』って気持ち。もちろん、そんな気持ちは、私には一瞬も沸かなかった。
そして【母親や親族の反応を私が望む】ってことが、自分で分からなくなった。結局は【私の人生】なんだから、『私以外の人間に何を望む?』って感じだ。【私が私の生き方に満足すること】を差し置いて、『何が私の人生よ?』ってなった。

【私が主語、私が理由】で生きること。今回の私は、そんな思考が足りなくて数時間葛藤した。きっと、『全部が全部【私】でなくてもいいだろう』とは正直思う。でも、【今の私】は、それを『上手くコントロールするのが難しい』だけ。

『自分がしたくてしたこと』は『自分がしたくてやっただけ』だし、『自分がやりたくなければ、やらなければいいだけ』じゃん。【自分以外の誰か】を理由にしない。それを改めて学んだよね。

それに、『自分だけで叶えられないことを、簡単に相手に委ねるな』って、正直思った。【自分の子供や身内だから】って、実際は【私が決めること】だよ。それを分かって言っているのか、何も考えずに言っているのか。別にどっちでもいいけど、『あなたはそうなのね〜』って軽く流せる程、私はまだ大人になりきれていない。

また『相手に勝手に評価されるのが嫌だな』って思っていたのも、正しく同じこと。【良かった】かどうかは、私が決める。だから、まずは【私自身が相手を選ぶ】ってことが大事なんだって思った。私が『言いたければ言う』『やりたければやる』だし、私が『言いたくなければ言わない』『やりたくなければやらない』って話。全て単純。『どんな相手か』ってことが、私の中で、ある程度のイメージがある。それを加味した時に『私がどう思うのか?』と、再度検討することも1つ覚えた気がする。その結果、今回は『やらない』だった。

そして、そんな私の思考が【極端な思考の持ち主】だと言える現状。自他共に認めている。友達にも最近言われた。
とはいえ、それくらい躍起になって【私】を主張する【今の私】も【私でしかない】って感覚。だから私は、【私のペース】で【私らしく】でも常に『変化して生きていくよ』って感じ。それが、私の思う【私が自由に生きること】な気がしている。

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