小説『ノルウェイの森』を読んで④

4回に渡って見て行ったノルウェイの森。

これまで主に、直子やレイコさんの言葉を取り上げていきました。
実は前回までの内容はすべて上巻に書かれていて、真っ暗闇の中にいた当時の私は、その上巻に救いと共感を求めて、バイブルのように、何度も何度も読んでいました。

そんなもんだからなかなか下巻までたどり着くことができず、自分が少し元気になるにつれて、ようやく下巻まで読み進められるようになったと思ったら、そこで直子の死を知って、絶望して、自分も直子のようになるのではないかと怖くて、1年ほどこの本を目の届かないところに置いていた時期がありました。

今は落ち着いて読むことができます。自分は自分、他人は他人だということがわかったから。かなり時間がかかったけど、必要な時間だったんじゃないかなぁと思っています。

さて、今回はそんな私が下巻を読んで考えたことを書いています。小説に書かれていることを、それ以上でもそれ以下でもなく、できるだけ正しく正直に読み取ることを意識して書きました。良ければ読んでみてください😌

●自分と他者について


森の中にいる当事者はいつも死と隣り合わせにいると感じる時がありますよね。死の穴が日常生活の中に点々と転がっています。こういう本や誰かの死に引っ張られそうになることも少なくないんじゃないかと思います。私がそうだったから。

主人公「僕」も、キズキや直子という身近な人の死に引っ張られ、森の中に迷い込みます。彼女らの思念があまりにも流れ込んでしまって、自分の心の居場所がわからなくなるのです。

その心境は、「僕」の行動にも表れていて、僕は直子が死んだあと、旅に出ます。

「いったいどこをどういう風にまわったのか、僕には全然思いだせない。風景や匂いや音はけっこうはっきりと覚えているのだが、地名というものがまったく思いだせないのだ。順番も思いだせない。
僕はひとつの町から次の町へと列車やバスで、あるいは通りかかったトラックの助手席に乗せてもらって移動し、空地や駅や公園や川辺や海岸やその他眠れそうなところがあればどこにでも寝袋を敷いて眠った。交番に泊めてもらったこともあるし、墓場のわきで眠ったこともある。人通りの邪魔にならず、ゆっくり眠れるところならどこだってかまわなかった。僕は歩き疲れた体を寝袋に包んで安ウィスキーをごくごく飲んで、すぐに寝てしまった。親切な町に行けば人々は食事を持ってきてくれたり、蚊取線香を貸してくれたりしたし、不親切な町では人々は警官を呼んで僕を公園から追い払わせた。
どちらにせよ僕にとってはどうでもいいことだった。僕が求めていたのは知らない町でぐっすり眠ることだけだった。
(中略)
そんな風に彼女のイメージは満ち潮の波のように次から次へと僕に打ち寄せ、僕の体を奇妙な場所へと押し流していった。その奇妙な場所で、僕は死者とともに生きた。
(中略)
しかしやがて潮は引き、僕は一人で砂浜に残されていた。僕は無力で、どこにも行けず、哀しみが深い闇となって僕を包んでいた。」


「キズキが死んだとき、僕はその死からひとつのことを学んだ。そしてそれを諦観として身につけた。あるいは身につけたように思った。それはこういうことだった。
『死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ』
たしかにそれは真実であった。我々は生きることによって同時に死を育んでいるのだ。しかしそれは我々が学ばねばならない真理の一部でしかなかった。直子の死が僕に教えたのはこういうことだった。どのような真理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを癒すことはできないのだ。どのような真理も、どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことはできないのだ。我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしかできないし、そしてその学びとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ。」


哀しみが和らぐことなく旅を終えた僕は、東京でレイコさんと会って、僕と直子の関係についてこう述べています。

「考えてみれば我々は最初から生と死の境い目で結びつきあってたんです。」

「僕」は直子の死に混乱し、死者と生者、他者と自分、の曖昧な境界で、心の居場所を求めて漂います。そんな僕は、どうなるのでしょうか?

どうなるのかがどうしても最後までわからなくて、でも最近たまたま、本当に偶然に(あるいは必然だったのか?)、村上春樹さんの短篇集「めくらやなぎと眠る女」を読みました。その中にヒントが隠されていたので、それを踏まえて考えていきたいと思います。その短篇集のイントロダクションに、村上さんはこう書き記しています。

「また僕は短篇小説を長篇小説の一部として書き直すことが多く、この作品集にもいくつかそのような『原型』が収められている。『螢』は長篇小説『ノルウェイの森』の一部となり、『人喰い猫』は長篇小説『スプートニクの恋人』の一部として組み込まれている。」

そこで私は、長篇小説「ノルウェイの森」の原型となった短篇小説「螢」を読んでみました。
「螢」の中には、「ノルウェイの森」の中で見たことのある景色や聞き覚えのある会話、感覚がたくさんありましたが、短篇で描かれた螢自身の描写は、ノルウェイの森では直接的には書かれていなかったように思って(記憶曖昧ですが💦もし書かれていたら教えてください)、その描写に注目して読んでみました。
以下は、その螢の描写です。

「その月の終りに、僕の同居人がインスタント・コーヒーの瓶に入れた螢をくれた。瓶の中には螢が一匹と草の葉と水が少し入っていた。ふたには細かい空気穴が幾つか開いていた。あたりはまだ明るかったので、それはただの水辺の黒い虫にしか見えなかった。しかしよく見ると、たしかにそれは螢だった。螢はつるつるとしたガラスの壁をよじのぼろうとしてはそのたびに下に滑り落ちていた。(中略)

日が暮れると寮はしんとした。(中略)

瓶の底で、螢は微かに光っていた。しかしその光はあまりにも弱く、その色はあまりにも淡かった。僕の記憶の中では螢の光はもっとくっきりとした鮮やかな光を夏の闇の中に放っているはずだ。そうでなければならないのだ。
螢は弱って死にかけているのかもしれない。僕は瓶のくちを持って何度か振ってみた。螢はガラスの壁に体を打ちつけ、ほんの少しだけ飛んだ。しかしその光は相変わらずぼんやりとしていた。
たぶん僕の記憶が間違っているのだろう。螢の光は実際にはそれほど鮮明なものではなかったのかもしれない。僕がただそう思い込んでいただけのことなのかもしれない。僕にはうまく思い出せなかった。最後に螢を見たのがいつのことだったかも思い出せなかった。

僕が覚えているのは夜の暗い水音だけだった。煉瓦づくりの古い水門もあった。ハンドルをぐるぐると回して開け閉めする水門だ。岸辺にはえた水草が川の水面をあらかた覆い隠しているような小さな流れだった。あたりは真暗で、水門のたまり・・・ の上を何百匹という螢が飛んでいた。その黄色い光のかたまりが、まるで燃えさかる火の粉のように水面に照り映えていた。
あれはいつのことだったのだろう?そしていったい何処だったのだろう。
うまく思い出せない。
今となってはいろんなことが前後し、混じりあってしまっている。
僕は目を閉じて、気持を整理するために何度か深呼吸してみた。じっと目を閉じていると、体が今にも夏の闇の中に吸いこまれてしまいそうな気がする。(中略)

僕は瓶のふたを開け、螢をとりだして、三センチばかりつきでた給水塔の縁に置いた。螢は自分の置かれた状況がうまく把めないようだった。螢はボルトのまわりをよろめきながら一周したり、かさぶたのようにめくれあがったペンキに足をかけたりしていた。しばらく右に進んでそこが行きどまりであることをたしかめてから、また左に戻った。それから時間をかけてボルトの頭の上によじのぼり、そこにじっとうずくまった。螢はまるで息絶えてしまったみたいに、そのままぴくりとも動かなかった。

僕は手すりにもたれかかったまま、そんな螢の姿を眺めていた。長いあいだ、我々は動かなかった。風だけが、我々のあいだを、川のように流れていった。けやきの木が闇の中で無数の葉をこすりあわせた。
僕はいつまでも待ちつづけた。

螢がとびたったのはずっとあとのことだった。螢は何かを思いついたようにふと羽を拡げ、その次の瞬間には手すりを越えて淡い闇の中に浮かんでいた。そしてまるで失われた時間を取り戻そうとするかのように、給水塔のわきで素早く弧を描いた。そしてその光の線が風ににじむのを見届けるべく少しのあいだそこに留まってから、やがて東に向けて飛び去っていった。

螢が消えてしまったあとでも、その光の軌跡は僕の中に長く留まっていた。目を閉じた厚い闇の中を、そのささやかな光は、まるで行き場を失った魂のように、いつまでもさまよいつづけていた。

僕は何度もそんな闇の中にそっと手を伸ばしてみた。指は何にも触れなかった。その小さな光は、いつも僕の指のほんの少し先にあった。」


ここでこの短編小説は終わります。この短篇を読みながら、「螢」の描写があらわす「生」や「死」や「再生」についての感覚を、じわじわと捕捉されるように味わいましたが、私は最後の一段落で少し混乱してしまいました。

「僕は何度もそんな闇の中にそっと手を伸ばしてみた。指は何にも触れなかった。その小さな光は、いつも僕の指のほんの少し先にあった。」

という部分です。

仮に「闇」が死を、「小さな光」が生を表しているのだとしたら、そのどちらにも手の届かない「僕」は一体どこにいるのでしょうか?
これはノルウェイの森のラストにも通じると思います。

「僕は今どこにいるのだ?
僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるぐると見まわしてみた。僕は今どこにいるのだ ・・・・・・・・・・?」

という部分です。

ノルウェイの森を読んで私が最後まで分かることのできなかった部分でした。しかし「螢」をふまえて、私はあるいはこうではないかと考えました。

『死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。』
のであれば、「小さな光」を含んだ「闇」という、手に届きそうで届かない存在は、生きているのか死んでいるのかに関わらず、人、つまり「僕」にとっての他者(直子やキズキのような存在)を表しているのではないか、と。

そして、どれだけ他者と一緒に生きたい、他者を得たい、と願っても、自分の人生は自分のものでしかない。他者の人生が他者のものでしかないように。その辛さや切なさに僕はラストで気づき始めたのではないか、と。
それは同時に、僕が僕自身にいる(あるいは帰ってきた)ということ、それに気づき始めた驚きや孤独を「僕は今どこにいるのだ?」で表しているのではないかと感じました。

得ようとして得られなかった他者との空間。あるいはともに生きることのできなかった生活。ひとつ、また僕は失った。少しづつ僕は失われていく。人は必ず死に、季節が巡るごとに死者との距離は遠のいていくから。

僕は失っていく。その対価を、私たちは探しているのです。

僕は今後、緑と関わり合いながら、その対価を探していくのではないでしょうか。それが村上さんの考える人生というものの1つの考え方なのかなぁと思いました。

●幸せになりなさい

これまでたくさんの忠告をしてくれたレイコさん。彼女は僕に、「最後の忠告」として「幸せになりなさい」と言います。以下は、前述の「僕」の言葉、

「考えてみれば我々は最初から生と死の境い目で結びつきあってたんです」

それを受けたレイコさんの返事です。

「あなたがもし直子の死に対して何か痛みのようなものを感じるのなら、あなたはその痛みを残りの人生をとおしてずっと感じつづけなさい。そしてもし学べるものなら、そこから何かを学びなさい。でもそれとは別に緑さんと二人で幸せになりなさい。あなたの痛みは緑さんとは関係ないものなのよ。これ以上彼女を傷つけたりしたら、もうとりかえしのつかないことになるわよ。だから辛いだろうけれど強くなりなさい。もっと成長して大人になりなさい。私はあなたにそれを言うために寮を出てわざわざここまで来たのよ。はるばるあんな棺桶みたいな電車に乗って」


また、僕への手紙でもレイコさんはこう書いています。

「私のような無力で不完全な女でもときには生きるってなんて素晴らしいんだろうと思うのよ。本当よ、これ!だからあなただってもっともっと幸せになりなさい。幸せになる努力をしなさい。」


他者。それは決して手に入れることのできない、永遠ではないもの、失っていくもの。生きていくために、私たちはその対価を探さなければならない、つまり私たちは「幸せになる」という努力をしなければいけないのだ、というメッセージをこの本から受けとりました。

哀しい1つの現実に気づいたときの辛さや切なさを描き、その現実を知った自分が今、そしてこれから、どう生きていくかについて書かれた小説だと感じました。

これをもって、「小説『ノルウェイの森』を読んで」の感想は終わりです。長い間読んでくださってありがとうございました。
あなたや私が、この本を糧に、再生できることを願っています。

p.s.
年末は皆さまどう過ごすご予定ですか?

わたしは、本命の映画を3本、劇場で見てこようと思っています。(本命めっちゃあるやん😅)
もう本当に楽しみで仕方ないです。たぶんそれが、今年の映画納めになると思います。

今年は全部で62本の映画を見ました。映画好きとしてはあまり多くない数だと思いますが、好きだなと思った映画を何度も見返したり、映画から原作を読んでみたり、サントラを聴いて映画を見た時の感情を思い返したり、こうやってnoteに感想を書いてみたり、などなど、自分なりに映画にたくさん浸ったなぁと思います。

好きな映画が30分も見れなくてちびちび泣いていた1〜2年前の私からすると、こうやって映画を楽しむことが出来るのは、本当に幸せですね。いやぁー。幸せです。

また、noteに感想を書くことを通して、新たな映画の楽しみ方を知りつつあるので、いつも読んでくださっている方々、感想をくださる方々には、感謝の気持ちでいっぱいです。
来年も、ぽつぽつと書いていければ嬉しいなと思っているので、ぜひよろしくお願いいたします♪

くる皆さまの新たな一年が、たくましく、幸あるものになりますよう。
それでは、良いお年を!

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