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ブラジリアン柔術との出合い

現在所属している柔術道場トライフォースに在籍して15年。柔術とはブラジリアン柔術のことである。でも初めて柔術をやったのは日本ではない。ブラジルでもない。ニューヨークだ。

ブラジリアン柔術とは約100年前、当時講道館の高弟であった柔道家、前田光世(コンデ・コマ)がブラジルに渡って、グレイシーファミリーに伝えた技術が元になっている。グレイシー柔術との名称でも知られる。

1997年。27歳の私は、写真が撮れずニューヨークの路上に座り込んでいた。

ニューヨークに来たての頃は、シャッターが切れたのだが、いざ暮らし始めると、あんなに魅力的に見えた高層ビル群や個性的なニューヨーカーも当たり前になってしまい琴線に触れなくなった。普通にそこにあるもの、日常と化したのだ。よく言うではないか、アルプスの山々も一週間で飽きると。あれである。

また先日のnoteでも書いたが、当時は日常をアート(表現)にまで昇華すべき術(感性)をもっていなかったこともある。だから撮れなくなってしまった。

カメラを首からぶら下げ、街を歩き続けても何も撮れず、疲れ果てうつむき加減に座り込んでいた。すると目の前に大きな塊が現れ暗くなったので見上げると、100kg級の黒人が立っていた。目が合うと、一枚のフライヤーを渡された。見れば「JIUJITSU」と書いてある。それがブラジリアン柔術との出合いだ。

その道場はマンハッタン島の最南端に位置する地区、Lower Manhattan(ロウアー・マンハッタン)にあった。ゴールドジムのようなフィットネスジムの中のマットスペースを間借りしてやっていた。月・水・金、あるいは火・木・土の週3回だったと思う。

残念ながらジムの外観とか、最寄駅や周りの風景など、まったく撮影していないので、正確な場所やフィットネスジムの名称が分からない。プロとして活動している今なら到底考えられない行為である。使うか使わないかは別にして、プロはとりあえず押さえておく。ギャラが発生している受注仕事なら尚更。

まだアマチュアだった当時の私は、データ的なものは一切撮らなかった。恐らくそれは、フィルム撮影の場合、フィルム代、現像代、プリント代と、1カット幾らとすべてにお金がかかるから、絵になるものでなければ撮らなかったのだろうと思われる。こういったことも、気軽にシャッターを押せなくなった要因の一つかもしれない。

デジタルであれば、多少気分が落ちていても、シャッターを押し続けていれば、次第に乗ってきてまた撮れるようになる。良いものがあれば、その場ですぐ確認して、テンションも上がるし。

フィルムの方が良いと言っているわけではない。むしろこうして文章を書いたりする場合には、データが残っているデジタル写真の方がいい。あくまで特製の違いを言ってるだけだ。

柔術は最初ハマらなかった。10代の頃ボクシングをやっていたので、それに比べれば、まどろっこしい競技だと思ったし、同じ格闘技でも派手な打ち合いが展開されるボクシングやキックボクシングに比べて、寝技ははっきりいって地味、写真的に絵になりづらい面もある。やるのも撮るのもいまいち乗らなかった。どこかでボクシングの方がいいやと思っていた節もあるし。

そうやって1ヶ月ぐらいが過ぎた頃、道場主のブラジル人茶帯のマルコに「タカシ、バーリトゥードでやろう。殴っても蹴ってもいいぞ、なんでもありだ」と、フリースタイルでのスパーリングを誘われた。ちなみにバーリトゥードとはポルトガル語で“なんでもあり”の意味。噛みつき、目突き、金的攻撃以外はなにをやっても構わないという基本ノールールのことである。道場破りや決闘などの場合に採用されてきたブラジル伝統のルール。

距離をとって対峙するふたり。チャンスがあれば殴ってやろうと思っていた。しかし、その思いは叶わず。あっと思う間もなく、ズバッと低空の両足タックルに入られ持ち上げられて、マットに叩きつけられ、そのまま馬乗りになられて、パンチを落とされた。寸止めで。その間、数秒。なにも対処できなかった。すげえな!柔術!本当の意味で柔術と出合ったのはこの日だといえるかもしれない。

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これがマウント(馬乗り)。巷で最近よく使われるようになった言葉マウンティングとはまさにこの状態を示す。上位、圧倒的に優位な態勢ということである。

おそらくマルコは柔術への取り組み方に意気込みが感じられない私に対して、活を入れるというか、刺激を与えようと思ったのだろう。

その思惑は見事にはまり、それからは練習に熱が入るようになった。でも、写真はあいかわらずまだ迷いがあった。そもそも20代は柔術の撮影に関係なく、写真家としての自分探しをしていた頃だからね。。続く。

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同い年のマルコ。当時は俳優を夢見てブラジルからニューヨークに渡って来ていた。ともに27歳。カメラマンと役者の卵。ニューヨークにはそういった何かを求めた若者たちが世界中から集まっていた。おそらくそれは今も変わらない。マルコ、その後どうなっただろう?当時はフェイスブックやツイッター、インスタなど気軽に繋がれるSNSがなかったので消息は知れない。

1997年、マンハッタンにはファビオクレメンテの道場と、マルコが先生として仕切る道場のふたつしかブラジリアン柔術の道場はなかった。ともにマチャド系。ヘンゾ・グレイシーの道場は、ハドソン川を渡って向こう岸のニュージャージー州にあった。黒帯ではない茶帯のマルコが道場を切り盛りしている、そんな時代だ。


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