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【思考】戸田真琴、経験も文章もとんでもない。「人生どうしたらいい?」と悩む時に読みたい救いの1冊:『あなたの孤独は美しい』

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AV女優・戸田真琴の「言葉の人」としての側面が全開に発揮された素晴らしいエッセイ『あなたの孤独は美しい』

私は基本的に、なかなか他人に関心を持つことができません。大体の場合、「つまらないなぁ」と感じてしまうのです。そして、興味を持てるかどうかは、「普段から色んなことをあーだこーだ考えているかどうか」違いなのだろうと私は思っています。

以前、ちきりん氏の本を読んで、次のようなツイートの存在を知りました。

これは非常に共感できる内容でした。そして私は、「5分考えたことを5分話す人」にはまったく興味が持てず、「100時間考えたことを5分話す人」に興味があります。日常的に思考を巡らせていない人との会話はどうしても「つまらない」と感じてしまうし、そういう人とはなるべく関わりたくないと思ってしまうのです。

そして「思考を巡らせているかどうか」は基本的に、その人が発する「言葉」に現れるものです。私は、「普段から色々考えていて、言葉が熟成されている人」のことを「言葉の人」と呼んでいて、大体そういう人にしか惹かれません。

今まで小説やエッセイなどたくさん読んできましたが、「作品を面白い」と感じることは多々あっても、「この著者に会いたい」と思うことはそう多くありませんでした。「この小説をどんな風に生み出したのか」「こんな面白いエッセイを書く人はどんな感じの人なのか」という関心を抱くことはあるし、そういう興味を解消するために1回ぐらい会ってみたいと感じることはあるのですが、「人間的に興味を抱き、もし可能なら継続的に関われたらいいと感じること」はほぼありません。

今までそう感じた人を挙げてみると、小説家の森博嗣、アイドルグループ乃木坂46の齋藤飛鳥、4人組バンドSEKAI NO OWARIの藤崎彩織となります。

そして本書『あなたの孤独は美しい』を読んで、AV女優の戸田真琴にも同じような感覚を抱きました。

辛すぎる経験を乗り越えるために身に着けた「言語化能力」と、それを「誰かを救うために使う」という意志

私の中には、「辛い経験をせざるを得なかった人ほど、『言葉』が豊かになる」という持論があります。そして、私のそんな持論を証明するかのような文章が本書にありました。

私は家族に対する「どうやってもわかり合うことができないんだ」という失望が、自分の孤独を知るきっかけになりました。当たり前にわかり合えて愛し合える家族の下に生まれていたら、きっともっと満ち足りていて、こんなに必死に自分の心の本当の姿を知ろうと頭をひねらせることもなかったかもしれません。

私も子どもの頃からずっと、「自分の周囲の世界に『馴染めない』という感覚」をずっと抱いてきました。家でも学校でも、「なんか違う」という感覚を拭いきれなかったのです。家族に対して多くの人が抱いているのだろう「親愛の情」みたいなものを、私はこれまで感じたことがないし、クラスメートたちの会話に「一体何が面白いんだろう」とずっと疑問を抱き続けていました。一応書いておきますが、私は別に親から虐待を受けていたとか、学校でいじめられていたなんていうことはなく、外から見れば「普通」の環境にいたと思います。それでも私は、自分の周りに存在する環境すべてに、「ここにはいたくないなぁ」と思い続けていたのです。
 
戸田真琴もまさにそのようなタイプの人でした。後で詳しく触れますが、彼女の場合は「家庭環境」にかなり問題があり、そのせいで「歪んだ愛情」にしか接することができなかったり、あるいは「愛情」というものの存在がよく分からなかったりすることになります。
 
そんなわけで戸田真琴は、「どうして自分はこういう状況にいるのか」「私は本当はどうしたいのか」みたいなことを必死で考えざるを得なくなりました。そういう経験をしているからこそ、普通にはなかなか獲得し得ないだろう「言語化能力」を手に入れられたのでしょう。
 
私はよく「解像度」という言葉を使います。一般的には、カメラの画素数などと関連付けて使われる言葉でしょう。しかし私は、「言葉の解像度」「理解の解像度」などのように使っています。要するに、「物事をどれだけ細かく捉えているか」の指標というわけです。詳しくは、『彼女が好きなものは』の感想で触れていますので、そちらを読んでください。
 
戸田真琴は、とても「解像度」が高い人だと感じます。様々な事柄を非常に細かく捉え、さらにその捉えたものを仔細に言語化できるのです。私は、「言葉の人」「解像度が高い人」を見つけるセンサーに優れていると自分では思っていて、そしてそのセンサー的に、戸田真琴はめちゃくちゃハイレベルだと感じます。だから、先に挙げた人たちと同じく、「人間的に関心があるので会ってみたい」という風に思わされたのです。
 
さて、そんな「言葉の人」である戸田真琴は、やがて、自分以外の誰かのために「言葉」を駆使しようと考えるようになります。本書の冒頭「はじめに」で書かれていた文章は、まさにそんな宣言とも取れるものでしょう。

あなたが、世間からほんのちょっと浮いてしまった時、そんな自分を恥じるよりも早くに、私が大丈夫だと言うために駆けつけます。
あなたが、賑やかな集団に混ざれなくて、そんな自分を情けなく思う時、本心に背いて無理やり混ざりに行こうとするよりも早くに、私がその手を掴んでちゃんとあなたらしくいられる場所まで連れていきます。
現実には身体は一つしかないのでそんなことはできやしませんが、心という自由な空間の中では、あなたのところまでちゃんと走っていけるのです。こうして、本という形にして、いつでもあなたが開くことのできる場所に置いておくことさえできたならば。
そんな願いを込めた本にしたいと思います。
あなたが、あなた自身を恥じないで生きていけるようになるのなら、私はきっとどんな言葉も吐くでしょう。

この文章の凄まじさを私なりにちょっと説明してみたいと思います。

凄さを感じる最大の理由は、「嘘っぽいことを言っているのに、嘘っぽく受け取られない」という点にあります。「大丈夫だと言うために駆けつけます」「その手を掴んでちゃんとあなたらしくいられる場所まで連れていきます」という言葉は、普通に考えれば「いや、無理でしょ」と受け取られて終わってしまうでしょう。彼女自身も、「そんなことできやしませんが」と書いているので、実際に出来ないことは認めているわけですが、そもそも「そんな偽善者っぽいことを言うのは胡散臭い」という印象になってもおかしくないと私は思うのです。

ただ、もちろん感じ方は人によって違うと思いますが、私はこの文章を読んで、「彼女は本心でこれを書いているのだろう」と受け取りました。本文を読んでさらにその印象は強まるわけですが、彼女はたぶん「思ってもいないことは言葉にできない人」なのだと思います。「自分の中で『嘘』だと感じられてしまうこと」は、書きたくても書けないというわけです。そういう雰囲気が伝わるからこそ、やや大げさにも感じられる宣言が、一言一句偽り無く彼女の本心であると受け取れるのだと思います。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

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